近代わたしたちの生活はとても便利になりました。また日本の生活は活気あふれるものであるとも言えるでしょう。都市部に行けば娯楽施設がありますし、大きいショッピングモールが軒を連ねているので、欲しいと思うものが何でも揃うでしょう。都市部から遠くに住んでいる人々も、車や電車などの交通手段がありますし、インターネットを使えば家から買い物もできてしまいます。このようにわたしたちの生活は飛躍的に便利なものとなりました。
しかし、講演者の田口佳史さんは、現代の日本の生活はかつてのものとは様相が異なると言いました。どのように変わってしまったのでしょうか。
わたしたち日本人の生活の端々には自然や生命があふれていました。辛いことはありながらも、清く美しい流れの中で生きてきました。日本はかつて日本に親交のあった外国人からこう言われていたそうです。「日本ほど貧しい国はない。しかし同時に日本ほど美しい国もない。この国は貧しいながらも、常に洗い清められている。貧しさを超越し、何かを持っている」と。
そんな環境で生きてきた日本人は、現代では金銭物質主義とも言えるような流れの中で生活しています。今こそわたしたちは、自分たちのルーツから生活を見直し、これからどう生きていくか考えなくてはならないのではないでしょうか。内なる日本人の特質について知り、日本の生活を見直すのです。
まず大きな特徴として地理的環境があるでしょう。日本は森林山岳国家でありながら、海洋国家・島国という特性を持っています。その中でも、わたしたちの生活に大きな影響を与えたのは、日本が森林に覆われ、深い山・森の中で暮らした「山・森の民」であるということでしょう。森林には生命の根源である水が溢れています。日本が「粗い清められてた国」というのは、その森林が生み出した水で穢れを洗い落としたからでしょう。森と山は自然の力でいっぱいなのです。
それは日本人の神の発見につながりました。人々の暮らしは恵みをもたらされたり、反対に災いの力に襲われたりしてきたのです。その大いなる力の中に日本人は、自然の偉大な力を感じてきました。それが神の発見。生活に直結した神の存在は、強い信仰心を日本人の中に芽生えさせました。それは真の信仰心、心の底からの信仰心であったのでしょう。今でも古い社などを訪ね、「ご神体は何でしょうか?」と問えば、山や森などの自然を指すのだそうです。わたしたちは自然の中に神の存在を感じてきたのです。そんなことを経験してきた田口さんはこう言います。「わたしが外国人に日本人の特徴、国民性は何だと聞かれたならば、こう答えることにしています。鋭い感性と深い精神性である、と。」自然に神を感じるという感性、それを真に信仰した精神。それが日本人の特性だ、と言われるとわたしは自分が日本人であるのを誇りに感じずにはいられません。
歴史を学べばわかる通り、ギリシャやインドにも神という存在はあります。そしてそれは「像」という形に表されています。しかし日本の自然の神には像というものがありません。それは日本人が自然と共生してきたから、自らが信ずる神たちと共生してきたからだ、と田口さんは語ります。
もう一つの地理的特徴を上げるならば、ユーラシア大陸の東端、極東に位置するということです。西から新しいものが伝来してくる中、日本より東には流れることはありませんでした。太平洋によって隔てられていたからです。日本には流れてきたものが溜まりました。そこで何が起こるか、文化が熟成するのです。仏教や禅も、日本で昇華させられたものでしょう。そして中国から流れてきた老荘思想。これも日本で昇華したものです。地理的特徴はここまでです。
ここで老荘思想の成熟について見てみましょう。
老荘思想の考え方の中心にあるのは「道」という概念です。道というものは見えないものです。その見えない様子から、「無」であるとも言えます。「無」こそ自然の姿なのだということ。この場合の自然は先ほどまでとは違い、natureではありません。「自ずと然り」なものだと田口さんは言います。禅、仏教もこのことと関わりがあります。禅や仏教の世界では、心で心に伝えるのだそうです。それら心は文字にしてしまうことで、成り立たなくなります。「無」の状態そして何も描かない・書かないことで、多くを語る・伝えるという点では、「道」も禅、仏教も同じだということです。
日本の地理的特徴は考えました。老荘思想の成熟についても見てみました。それでは日本人の生き方や生活が完成する過程はどうだったのでしょうか。
日本人の生き方が完成するのに貢献した人物がいます。それは藤原定家、世阿弥、千利休、松尾芭蕉の4人です。それぞれがどう貢献したのか、見ていきましょう。
定家は「見渡せば 花ももみじもなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ」という歌を詠みました。花ももみじもないと言っている部分から、想像上の色鮮やかな情景を想起させます。
世阿弥は見えない世界を扱うことで貢献しました。この世のものとは思われぬ、霊の世界を見せ、それを体験させたことで人々の心を動かしたのです。それは夢幻能とも言われました。見えないものや形ないものの中に何かを感じるという気質は世阿弥が残したものなのかもしれません。
利休の世界は様式美です。ほんの一杯の茶、すぐに飲み終えることのできる茶ですが、それを時間をかけて味わうということ。そして彼は茶室の部屋を狭くとったそうです。その部屋は四畳から二畳半へと狭まりました。田口さんも利休の茶室を訪ねたことがあるらしいですが、それは思ったよりも広くて美しいものだったそうです。
そして最後に芭蕉ですね。彼はすべての文字を一度捨てさった上で、文字を取り出し、その文字によって独特の世界観を創り、わたしたちに示したのだそうです。そして彼は文字を捨てたように、すべてを捨て旅に出ます。その後彼は紀行文学と呼ばれる分野を樹立したのです。しかし彼はそのような分野の樹立を意図していたわけではありませんでした。彼は旅を住みかとしたのです。それが彼には自然な流れ、自ずからあって然るべき道だったのかもしれません。
それではわたしたちは昔のような生活に戻らなくてはならないのでしょうか。いいえ、それは違います。田中さんは今回の講演の終わりをそのようには締めませんでした。答えは「東洋と西洋の知の融合」を目指すということでした。原理・原則、つまりプリンシプルに優れているのは東洋、そして技術、つまりスキルは西洋が優れています。これを融合させることで、見方が変わる。それを講演の終わりとしたのです。
しかし融合させるのは簡単なことではありません。考えてみれば異質なもの同士ですから、当たり前なのかもしれません。そこで自分のルーツ、日本や東洋思想をたどることが重要なのです。東洋の生き方を知り、その精神を学んでから、西洋思想へとアプローチしてみる。それで西洋思想は、以前とは違って見えるのだそうです。
そして東洋思想を学び、自己を確立することをアドバイスとして述べてくださいました。東洋人であること(東洋人としてのアイデンティティ)の確認と自覚をできれば、自分の基盤が安定します。その基盤の上に「大局観」を身につけることの大切さを説いてくださいました。大局観とは、すなわち根源的、歴史的・長期的、そして多様的観点のことです。物事を縦に深く掘り起こし、その根源を知ること。そして横に時間をたどり見ることで、その流れを知るのです。それができれば多様的に物事を捉えることはできるようになっていると。その大局観は人の一生の財産になるのです。
大局観を身につけるには、この縦に見ることと横に見ることの繰り返しと訓練しかないです。田口先生が述べたのは、まず縦に見る力を訓練し、鍛え、人にその点を認めてもらえるようになったら、縦はクリア。次は横。横に見ることをひたすら練習し、人がその点を認めてくれたならば、大局観は身についているとおっしゃりました。
自分のルーツ、東洋を見つめ直すということ。その果てにある、西洋との融合と大局観にたどり着くこと。またわたしに喜ばしい課題と目標が増えました。
慶應MCC「夕学五十講」が運営する参考ページ http://www.keiomcc.net/sekigaku-blog/2011/07/post_448.html
大学を卒業し、ある学校で英語を教えています。 学校での実践、読書、音楽、随想など様々に書きたいですが、「自分の言葉を修練する」ということを意識しながら綴りたいです。 よろしくお願いします。
2011年7月2日土曜日
2011年6月12日日曜日
110602 夕学講座 武田双雲: 夢の叶え方
1. 夢を持つべきという時代
武田双雲は「現代は夢を持つべきだ」とされる時代だと言いました。確かにそうかもしれません。「夢や目標を持ち、それに向かって努力すること」が美徳とされているように思います。夢や目標を持った人たちが成功した例は多くあるように感じます。個人的にはAppleがその例だと思います。保守的な価値観ではなく、革命的なことが好まれる現代では夢を持つことが美徳になったのだと思います。
しかしわたしたちが忘れてはいけないのは、今の生活水準の高さです。現代のわたしたちの生活水準は、過去の人々の夢を達成してしまっているような高さです。インターネットがつながる、良質な本が安くで買える、本もネットで注文すれば家から出なくても届きます。
夢を抱く前に、わたしたちは日常にあるものに感動し、感謝することが大切なのかもしれません。
2. 欲・夢・志
わたしたちは欲をもつことはいけないことだ教えを受けることが多いと思います。実際「強欲」「貪欲」など否定的な意味が強い語も多いかと思います。わたしたちは欲を抑えようとしたり、削ろうとします。欲というのは一般的にはネガティブなものでしょう。そこには「枯渇」「渇望」「嫉妬」などの意味合いが含まれるからです。
しかし欲を過度に削ってしまうと、良質な欲をも同時に削ってしまうことになります。
良質な欲とは何か。それは昇華させることで、夢へと近づくことのできる欲といえます。欲は必ずしも悪ではないと思います。欲という誰もがもっているものから、夢へとつなげることができます。
そのためには自分の欲を抑えつけるのではなく、自分の欲と対話することが大事だといいます。自分が真に何を望んでいるか、それを知ることから夢が始まるのかもしれません。そして自分に望みが何かを問いかけることで、夢が具体的になっていきます。そして具体的になってはじめて、夢は完成するのだと思います。自分が何に向かっているかわからないままでは、目標も夢もないですから。
3. 夢を描く時間を設ける
「夢を持つ」というだけでは、わたしたちは抽象的なものしか捉えてはいません。このままでは、何に向かっているかわからない状態になってしまうかと思います。
そこで夢を描く時間を設けることが大切だと武田双雲は言います。夢を具体的に描くことで、そこへ至るステップが見えてきます。さらに夢をイメージするというだけで、それは十分努力するモチベーションになりえるかと思います。
書くことで夢を叶えるのではありません。つかみやすくするのです。
4. 義務リストを書く
既述したように、わたしたちは日常の喧騒の中で生活していかなくてはなりません。「兎角に人の世は住みにくい」です。それら「しなくてはならないこと」を書き出してみましょう。そしてそれらをこなしていくと、タスクが目に見える形になります。すると進行度合いや終わりというものも見えてきます。
もう一つ大切なのは、そのタスクを苦痛だと思わないこと。嫌なものというのは一種の刷り込まれたものです。嫌なことを嫌なものとして受け取らない。そうすることでタスクをこなせると、武田双雲は言いました。
わたしはその考えもよいけれど、嫌なことは嫌なことして受け止めてもいいのかなと思います。嫌なことは自分の考え一つ次第とは言いながらも、なかなか変えることのできないものです。嫌なことはそう受け止めて、そんな嫌なことに立ち向かっている自分って悪くないという考えをしてみるのもいいのではないでしょうか。
義務感が減ることで、夢を描くことにかける時間が長くなるかと思います。そうなると、夢はより上質なものになります。より具体化できますから。
5. 夢の実現のために
夢の実現を確実なものとするには、もう少し条件があるかと思います。
#1 他人の望むように夢を設定しないこと
#2 夢を日々の中に
この二つです。
#1について。他人が望むように夢を描いてしまうと、そこに陰ができると双雲は言います。人の望むように生きることで、そこにフラストレーションが生まれたり、邪念なるものが生まれてしまうからでしょう。自分との対話を通して、自分の望むことを聞いてやることが必要になります。
#2について。夢はポジティブな感情です。感情という部分に落とし込まないといけないと双雲は述べました。これは夢を生活の中に埋め込むことで、日々が変化するからだと思います。夢が日々のものとしてではなく、あたかも自分から遠い目標のようなものになってしまうと、それだけ夢は遠のきやすいのかなと感じます。今の自分から将来の自分に確実につながっていると感じることが大切なのだと思います。
武田双雲は「現代は夢を持つべきだ」とされる時代だと言いました。確かにそうかもしれません。「夢や目標を持ち、それに向かって努力すること」が美徳とされているように思います。夢や目標を持った人たちが成功した例は多くあるように感じます。個人的にはAppleがその例だと思います。保守的な価値観ではなく、革命的なことが好まれる現代では夢を持つことが美徳になったのだと思います。
しかしわたしたちが忘れてはいけないのは、今の生活水準の高さです。現代のわたしたちの生活水準は、過去の人々の夢を達成してしまっているような高さです。インターネットがつながる、良質な本が安くで買える、本もネットで注文すれば家から出なくても届きます。
夢を抱く前に、わたしたちは日常にあるものに感動し、感謝することが大切なのかもしれません。
2. 欲・夢・志
わたしたちは欲をもつことはいけないことだ教えを受けることが多いと思います。実際「強欲」「貪欲」など否定的な意味が強い語も多いかと思います。わたしたちは欲を抑えようとしたり、削ろうとします。欲というのは一般的にはネガティブなものでしょう。そこには「枯渇」「渇望」「嫉妬」などの意味合いが含まれるからです。
しかし欲を過度に削ってしまうと、良質な欲をも同時に削ってしまうことになります。
良質な欲とは何か。それは昇華させることで、夢へと近づくことのできる欲といえます。欲は必ずしも悪ではないと思います。欲という誰もがもっているものから、夢へとつなげることができます。
そのためには自分の欲を抑えつけるのではなく、自分の欲と対話することが大事だといいます。自分が真に何を望んでいるか、それを知ることから夢が始まるのかもしれません。そして自分に望みが何かを問いかけることで、夢が具体的になっていきます。そして具体的になってはじめて、夢は完成するのだと思います。自分が何に向かっているかわからないままでは、目標も夢もないですから。
3. 夢を描く時間を設ける
「夢を持つ」というだけでは、わたしたちは抽象的なものしか捉えてはいません。このままでは、何に向かっているかわからない状態になってしまうかと思います。
そこで夢を描く時間を設けることが大切だと武田双雲は言います。夢を具体的に描くことで、そこへ至るステップが見えてきます。さらに夢をイメージするというだけで、それは十分努力するモチベーションになりえるかと思います。
書くことで夢を叶えるのではありません。つかみやすくするのです。
4. 義務リストを書く
既述したように、わたしたちは日常の喧騒の中で生活していかなくてはなりません。「兎角に人の世は住みにくい」です。それら「しなくてはならないこと」を書き出してみましょう。そしてそれらをこなしていくと、タスクが目に見える形になります。すると進行度合いや終わりというものも見えてきます。
もう一つ大切なのは、そのタスクを苦痛だと思わないこと。嫌なものというのは一種の刷り込まれたものです。嫌なことを嫌なものとして受け取らない。そうすることでタスクをこなせると、武田双雲は言いました。
わたしはその考えもよいけれど、嫌なことは嫌なことして受け止めてもいいのかなと思います。嫌なことは自分の考え一つ次第とは言いながらも、なかなか変えることのできないものです。嫌なことはそう受け止めて、そんな嫌なことに立ち向かっている自分って悪くないという考えをしてみるのもいいのではないでしょうか。
義務感が減ることで、夢を描くことにかける時間が長くなるかと思います。そうなると、夢はより上質なものになります。より具体化できますから。
5. 夢の実現のために
夢の実現を確実なものとするには、もう少し条件があるかと思います。
#1 他人の望むように夢を設定しないこと
#2 夢を日々の中に
この二つです。
#1について。他人が望むように夢を描いてしまうと、そこに陰ができると双雲は言います。人の望むように生きることで、そこにフラストレーションが生まれたり、邪念なるものが生まれてしまうからでしょう。自分との対話を通して、自分の望むことを聞いてやることが必要になります。
#2について。夢はポジティブな感情です。感情という部分に落とし込まないといけないと双雲は述べました。これは夢を生活の中に埋め込むことで、日々が変化するからだと思います。夢が日々のものとしてではなく、あたかも自分から遠い目標のようなものになってしまうと、それだけ夢は遠のきやすいのかなと感じます。今の自分から将来の自分に確実につながっていると感じることが大切なのだと思います。
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