実家に帰って感じたこと・学んだことシリーズの第2弾目です。
田舎コミュニティについて。
ある日母にインフルエンザの予防接種に行けと言われました。去年は予防接種したにも関わらず、新型インフルエンザにかかりました(新型はワクチンができていませんでしたけど。)今年からは従来のA香港型とBソ連型に加え、去年流行した型のワクチンも含んでいるそうな。
そこで本当に田舎の小さなクリニックに行きました。アポなしで行ったのですが、快く予防接種してくれるとのこと(さすがは田舎のクリニック!)そこの院長の先生と話す機会がありました。
「大学生?」「はい」
「どこの大学?」「広島の大学です」
「そう。何学部?」「教育です」
会話は続きます。
「去年インフルエンザかかった?」「はい、新型に」
「新型か。始めはきついかったかもしれないけれど、少し休んだら治ったろ?」「はい、二日くらいで」
「新型でどれくらいの人が亡くなったと思う?」「検討がつきませんね」
「本当?実は500人もいないんだよ。亡くなった人は元々重い疾患を持った人たちが多かった」「そうなんですか」
「じゃ、従来の型ではどのくらいの人が亡くなったと思う?」「やっぱり500人くらいですか?」
「いや、一万人以上だよ」「本当ですか?」
「ああ、本当だよ。メディアはまるでデマゴーグ(こういう用語を使うのはさすが知識人といったところ)のように煽りたてたろ。だが従来の型の怖さやその深刻さは伝えなかった。子どもたちを教えるなら、本当のことを、本当に大事なことを教えてね」「はい」
という会話の間にワクチン接種は終わってました。大学に入ってからあまり経験することのなかった新鮮な気持ちでした。田舎ならではの、人の多くない場所だからこその素晴らしい経験だったかもしれません。実家はとても田舎な場所ですが、そんな実家が大好きです。帰るたびに何か発見をくれるから。
皆さんもたまには実家に帰ってみるといいかもしれませんね。
ではまた書きます。
大学を卒業し、ある学校で英語を教えています。 学校での実践、読書、音楽、随想など様々に書きたいですが、「自分の言葉を修練する」ということを意識しながら綴りたいです。 よろしくお願いします。
2010年11月13日土曜日
2010年11月12日金曜日
『「ある」と「ない」』 『身の周りに感謝したい』から
二人の友人が嬉しいことにぼくのブログに関連したブログを書いてくれていたので、彼らの意見・考え等について書きます。
http://sato-system.blogspot.com/2010/11/blog-post_09.html
まず、Satoh380君の意見。
ぼくの言いたいことを彼自身のエピソードと、わかりやすくて読みやすい文章に変えてくれました。ぼくは一例で自分の犬の死を書きましたが、彼の言うとおり生物に限定しないです。物でもなんでも当てはまります。失くしてみて初めてそのものの大きさに気づくなんて、日常生活をよく見まわしてみるとたくさんあります。
http://varrie-alyabani-uk.blogspot.com/2010/11/blog-post.html
彼の意見もなるほどと思えるものでした。存在はしだいに当たり前になっていき、それがあるということに感謝するのは難しいです。そして失くしてから、「ない」ということに気づく。そう考えると、そこに「ある」という感覚はなくて、「ない」という感覚はあるという風に言えるかと思います。
しかしずっとそれではいけない。人間は成長なる過程でたくさんのものを失くしていきます。それらがあるうちに、その存在を実感し感謝できるようになっていくのが大人になることの一つだと思います。それがいつできるようになるかはわかりません。だからこそ、Yuki Oku君のいう「失ったものというのはその役目を終えて失われた瞬間に私たちはに自分を客観視させるという第二の役目を果たす」ということが言えます。ぼくはOku君のこの表現が大好きです。その通りだと思います。人間は身近な大切なものに気づかないから、失ったものが人間に諭してくれるのでしょう。ですからぼくの犬は、身近なものを大切にしなさいということを最後に教えてくれました。
なんだか自分のエピソードを美化しすぎた気もします。しかし自分の書いたブログからこれだけ多くの意見が出てくるというのは、とても嬉しいことです。
最後に二人の優しい言葉に「ありがとう」
また書きます。
http://sato-system.blogspot.com/2010/11/blog-post_09.html
まず、Satoh380君の意見。
ぼくの言いたいことを彼自身のエピソードと、わかりやすくて読みやすい文章に変えてくれました。ぼくは一例で自分の犬の死を書きましたが、彼の言うとおり生物に限定しないです。物でもなんでも当てはまります。失くしてみて初めてそのものの大きさに気づくなんて、日常生活をよく見まわしてみるとたくさんあります。
http://varrie-alyabani-uk.blogspot.com/2010/11/blog-post.html
彼の意見もなるほどと思えるものでした。存在はしだいに当たり前になっていき、それがあるということに感謝するのは難しいです。そして失くしてから、「ない」ということに気づく。そう考えると、そこに「ある」という感覚はなくて、「ない」という感覚はあるという風に言えるかと思います。
しかしずっとそれではいけない。人間は成長なる過程でたくさんのものを失くしていきます。それらがあるうちに、その存在を実感し感謝できるようになっていくのが大人になることの一つだと思います。それがいつできるようになるかはわかりません。だからこそ、Yuki Oku君のいう「失ったものというのはその役目を終えて失われた瞬間に私たちはに自分を客観視させるという第二の役目を果たす」ということが言えます。ぼくはOku君のこの表現が大好きです。その通りだと思います。人間は身近な大切なものに気づかないから、失ったものが人間に諭してくれるのでしょう。ですからぼくの犬は、身近なものを大切にしなさいということを最後に教えてくれました。
なんだか自分のエピソードを美化しすぎた気もします。しかし自分の書いたブログからこれだけ多くの意見が出てくるというのは、とても嬉しいことです。
最後に二人の優しい言葉に「ありがとう」
また書きます。
2010年11月7日日曜日
愛犬の死から学んだこと
この一週間で実家に帰っていました。実習終わって授業もあるのに無理やり休みの時間を作って帰りました。
理由があります。
教育実習中に愛犬が死にました。夏休みの間から元気がなくて心配していましたが、親が夏バテで暑いだけだろうと言っていたので、何も考えずにいました。しかし、やはり十年近く飼っていたので寿命だったのか十月に死にました。
そのときぼくは本当に後悔しました。実習が終わったら実家に帰って、犬を海や公園に連れて行こうと考えていたからです。もしかしたらもうそんなに長くはないかもしれないと思っていたので、死んでしまう前になんとか何かしたいと思っていたのですが、あんなに早く死期が来るとは思ってもみませんでした。
犬は両親が埋めてくれたのですが、死を自分でも受け入れるという意味でも一度実家に帰りました。いつも犬がいた場所には、何もいないというのは不思議で悲しい気持ちでした。いて当たり前だったものが、もうそこにはいなくて触れることもできないのですからね。
そこで犬から学んだことは「今自分の周りにいる人・自分の周りにあるものに感謝すること。」普段の生活の中では人間って、すでにあるものには感謝しないけれど、それが大事だと思います。それが存在している間に。今回の帰省でぼくは父方・母方両方の祖父母に会いに行きました。彼らが元気で生きてくれている間に、ぼくのできることをするために。いつかは愛犬の死と同じように、彼らの死に向き合わなくてはなりません。その時が来るまで、祖父母にはぼくの成長と元気な姿を見せなくちゃと思います。
愛犬の死のおかげで、取り戻せないものがあることを知りました。成長するって死に向き合っていくことだと学びました。この学びをどう活かすか考えなくてはと思います。
ちなみに今愛犬が眠っているところには、キンモクセイの木を植えました。秋にはすばらしい香りを届けてくれるでしょう。
では、また書きます。
理由があります。
教育実習中に愛犬が死にました。夏休みの間から元気がなくて心配していましたが、親が夏バテで暑いだけだろうと言っていたので、何も考えずにいました。しかし、やはり十年近く飼っていたので寿命だったのか十月に死にました。
そのときぼくは本当に後悔しました。実習が終わったら実家に帰って、犬を海や公園に連れて行こうと考えていたからです。もしかしたらもうそんなに長くはないかもしれないと思っていたので、死んでしまう前になんとか何かしたいと思っていたのですが、あんなに早く死期が来るとは思ってもみませんでした。
犬は両親が埋めてくれたのですが、死を自分でも受け入れるという意味でも一度実家に帰りました。いつも犬がいた場所には、何もいないというのは不思議で悲しい気持ちでした。いて当たり前だったものが、もうそこにはいなくて触れることもできないのですからね。
そこで犬から学んだことは「今自分の周りにいる人・自分の周りにあるものに感謝すること。」普段の生活の中では人間って、すでにあるものには感謝しないけれど、それが大事だと思います。それが存在している間に。今回の帰省でぼくは父方・母方両方の祖父母に会いに行きました。彼らが元気で生きてくれている間に、ぼくのできることをするために。いつかは愛犬の死と同じように、彼らの死に向き合わなくてはなりません。その時が来るまで、祖父母にはぼくの成長と元気な姿を見せなくちゃと思います。
愛犬の死のおかげで、取り戻せないものがあることを知りました。成長するって死に向き合っていくことだと学びました。この学びをどう活かすか考えなくてはと思います。
ちなみに今愛犬が眠っているところには、キンモクセイの木を植えました。秋にはすばらしい香りを届けてくれるでしょう。
では、また書きます。
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