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2011年6月13日月曜日

新約聖書・安息日に麦の穂を摘む

親共同訳・新約聖書・マルコによる福音書第2章27節より引用。

そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」

この言葉の背景を知るために、もう少し引用しましょう。

親共同訳・新約聖書・マルコによる福音書第2章23節から27節まで。
ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。イエスは言われた。「ダビデが、自分の供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」


http://news.livedoor.com/article/detail/5629307/

上の記事を読んだときに、聖書のこの節を思い出しました。ぴったりこの言葉に当てはまるケースではないと思いますが、法の権威が人の命や権利、意思といったものを越えてしまった例ではないでしょうか。

憲法、法律、条例、校則、常識・・・わたしたちはいくつの決まりを同時に抱えているのでしょうか。わたしはこれら決まりが悪いとは思いません。わたしたちの生活を秩序ある、人間らしい生活を営む役割を果たしてくれることにおいては。しかしこれらがわたしたち人間を支配するようになったら、そこに法の価値はありません。

いま一度、法や決まりは何のために存在しているのか考えなくてはなりません。

2011年5月21日土曜日

新約聖書・レビを弟子にする

親共同訳・新約聖書・マルコによる福音書第2章17節より引用。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためである。」

この言葉の背景を知るためにもう少し引用しましょうか。
親共同訳・新約聖書・マルコによる福音書第2章15節から17節まで。

イエスがレビの家で食事の席についておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。ファリサイ派の律法学者は、イエスや罪人や徴税人と一緒に食事されるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためである。」

この話は、靜哲人先生のブログ: What we teachers are for という投稿を読んで思い出しました。靜先生のおっしゃる通り、教師を必要としているのは、わかる生徒ではなくわからない生徒でしょう。わからない生徒が納得するまで教えるというのが理想です。もちろんそれと同時に、わかる生徒のもつ可能性を伸ばすのも教師の役目だと思っています。

靜先生のブログはこちら Kyle’s Kungdom: What We Teachers Are For


実はわたしは靜先生に教わったことがあります。高校のときの先生が靜先生と交流があり、お願いして実現したものでした。あのときわたしが感じたことは、本当に「発音を徹底的に」の方だったということです。洋楽を使った発音練習の授業。曲はMariah CareyのAll I Want For Christmas Is Youだったのを覚えています。教室全体で円を作って、ぐるぐる回りながら一人ずつ先生のところで一行歌詞を読む。発音をできたと判断されたら、次の行に進めます。ダメならもう一度同じ行を練習。次の自分の番が来るまで練習です。なかなか先に進めなかったのを記憶しています。そうですね、あとは先生が真っ赤なシャツを着て、学校にいらっしゃったのも覚えています。もう何年も前のことです。靜先生から一度とはいえ、教わる機会があったのは幸運でした。鹿児島のあんな辺境地に来てくださったのですから。靜先生がこのブログをご覧になるとは思いませんが、ありがとうございましたとお礼を言いたいです。

2011年4月23日土曜日

新約聖書・「仲間を赦さない家来」のたとえ

「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。(中略)。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるだろう。」

親共同訳・新約聖書・マタイによる福音書第18章21節から35節まで。

「仲間を赦さない家来」のたとえ
そのとき、ペトロがイエスのところへ来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済を始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、その家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったのか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるだろう。」

ちなみに1デナリオンとは1日分の賃金を表すローマの貨幣だそうです。なので、100デナリオンは100日分の賃金ということになりますか。1タラントンは6000デナリオンだそうなので、1万タラントンはとんでもなく大きな数字です。参考までに。主君はそんな莫大な借金をした家来を赦しました。しかし、赦された家来は仲間を赦しませんでした。

人や過ちを赦すことが、いずれ自分が赦されることにつながる。人を赦しなさいというメッセージが詰まっているように思います。

2011年4月11日月曜日

新約聖書・ヤコブとヨハネの母の願い

親共同訳・新約聖書・マタイによる福音書第20章25節から27節まで。
そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕えるものになり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」

これはゼベダイの息子たちの母がイエスに、王座に着いたときに自分の息子たちをそばに置いてやってほしいと願ったときに、イエスが母にかけた言葉です。

大きな人間ほど謙虚で、自分一人のためではなく、人のため世界のために生きるのだということが示された、すばらしい一節だと思います。

2011年4月7日木曜日

新約聖書 「十人のおとめ」のたとえ

親共同訳・新約聖書・マタイによる福音書第25章13節。
だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。

イエスは同書・マタイによる福音書の第24章29節-31節で、人の子が来ると言っています。その時が来るのを用意して待っていなさいと説いています。それをたとえを用いて説明しています。そのたとえが次です。

親共同訳・新約聖書・マタイによる福音書第25章1節-13節

「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油を用意していなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちの火は消えそうです。』賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買ってきなさい。』愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉じられた。その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、開けてください』と言った。しかし、主人は、『はっきり言っておく。わたしたちはお前たちを知らない』と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」

2011年3月20日日曜日

新約聖書 「種を蒔く人」のたとえより

これからは聖書を読んでいて印象に残った箇所や人にも伝えたいものをブログに残したいと思います。
目的は聖書をより多くの人に手に取ってもらえるようにすることです。ぼく自身はキリスト教徒ではありませんし、特に強い信仰心を持っているわけでもないです。ただ聖書を読むのが好きで、自分の人生や教養のために読んでいるだけです。勧誘等をしているわけではないので、気軽に読んでください。


新共同訳・新約聖書・マタイによる福音書第13章3節から9節まで。

「種を蒔く人」のたとえ
『イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところがほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」』

これの意味は次のように説明されています。

同書・同章・20節から23節まで。
「種を蒔く人」のたとえの説明
『石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐつまずいてしまう人である。茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。』

たとえ信仰がなくても、この箇所はためになるお話だと思います。こういったものをこれからも少しずつ紹介できたらなと考えています。