今日の英語教育史の授業でセンター試験の話がふと出ました。センター試験による序列化はよくないという話でした、確か。ぼく自身はAO入試で入ったのであまりセンター試験のことを意識したことはなかったですが、この序列化の話で引き合いに出された例がおもしろかったので、それについて少し意見を書きます。
ある高校生が社会の教員になりたいそうです。その生徒はある大学の社会科教員養成コースに入ろうと決めていました。しかしセンター試験の成績があまり芳しくなく、大学の試験との合計がとても足りそうにないそうです。そこで同じ大学の教育学系コースに入ろうと考えている、という例でした。センター試験の序列化によって、このようなことが起きている。社会の教員になりたいのに、教育学系コースに入るのはおかしいでしょというのが、教授の意見でした。
しかしぼくはそうは思いません。教育学系コースでも社会科教員免許は取得できます。もちろん社会科コース同様の過程を経てです(教育実習も同じように履修します。ただ少し社会科コースよりは少ない単位でということになりますが)。さらに教育学系コースならば、教育行政や学校運営の基礎を学ぶことができます。そのような過程を経て教師になった人ならば、通常の社会科教員では教えられないことも教えることができるはずです。何も授業の方法論だけが、その教員の力量ではないわけです。教師の中に従来とは異なるプロセスを辿ってきた方がいても、平等な評価を受ける権利があると思います。
ということを授業中に考えていました。
※ぼくのセンター試験に関する知識不足・現場の状況も把握していない一学部生の意見なので、間違いやほかに意見等あれば、お知らせください。
大学を卒業し、ある学校で英語を教えています。 学校での実践、読書、音楽、随想など様々に書きたいですが、「自分の言葉を修練する」ということを意識しながら綴りたいです。 よろしくお願いします。
2011年1月27日木曜日
2011年1月14日金曜日
日本人の無宗教
冬休み中にブログに書きたいことをメモしてためていました。
書きたい・おもしろいと思ったことがあったらメモしておいて、できるだけ早く文章化する、これが冬休みに感じたことです。
ということで、日本人の無宗教について書きます。内容は本当に浅いですが、これをきっかけに考えていって、自分なりに考えが深まったら、また追記していくという形にする。そういうやり方でいいのだと思うのです。要は考えるか・考えないのかですから。では書いていきます。
授業で宗教の話しが出ました。コミュニケーションの授業だったのですが、先生が話を広げるのが上手かつおもしろいので、すっかり夢中になってしまいました。西洋の宗教は従来一神教なので、人間の単数性という考え方しかなかったのではないかということでした。これがコミュニケーションに結びついていくのですが、ここでは避けましょう。
これを聴いたとき、とても不思議な気持ちでした。ぼくは人間の複数性について記事を読んだときに「なるほど」と納得したのですが、人間の単数性の話が出てきたときに、「そういう考えもあるよね」と自然と思えました。これはぼくの無宗教の特性がよく表れているのではないかと思いました。
日本人の無宗教は、宗教の知識・背景を知らない。ひどい場合になると興味がない、末期になると煙たがるというものですが、無宗教ゆえの寛容性も同時に秘めているような気がしました。
自分の宗教を信じるのは自由、どの宗教も悪いとは思いません。ただし人を不幸にするようなものをぼくは宗教だとは思いませんし、そんなものは認めません。同じ人間なのに、宗教のために命を捨てる、または奪うのはおかしなことだと思いませんか(これも無宗教の考え方でしょうか。)どの宗教もおそらくは人の心の支えとなる、生き方の指針となるもののはずですが、人を不幸にすることもあるというのは奇妙なことです。
日本人の無宗教は悪という考え方が多い気がします。なぜでしょうか。それはあまりにも宗教に無関心ということだと思います。寛容以前の問題です。なのでこれからぼくは、宗教のことを何も知らない・興味もないというのを無宗教と呼んで、宗教の知識もあるしそれを毛嫌いもしないけど何も信仰するものがないというのを非宗教と呼ぶことにしました。非宗教だからこそ、見えるものがあるとそう思うのです。
これは決して信仰をもつ日本人を誹謗・中傷するものではありません。信仰するものがあるなら、それは自由です。
非宗教の人も少しは胸を張って生きていけると思います。
書きたい・おもしろいと思ったことがあったらメモしておいて、できるだけ早く文章化する、これが冬休みに感じたことです。
ということで、日本人の無宗教について書きます。内容は本当に浅いですが、これをきっかけに考えていって、自分なりに考えが深まったら、また追記していくという形にする。そういうやり方でいいのだと思うのです。要は考えるか・考えないのかですから。では書いていきます。
授業で宗教の話しが出ました。コミュニケーションの授業だったのですが、先生が話を広げるのが上手かつおもしろいので、すっかり夢中になってしまいました。西洋の宗教は従来一神教なので、人間の単数性という考え方しかなかったのではないかということでした。これがコミュニケーションに結びついていくのですが、ここでは避けましょう。
これを聴いたとき、とても不思議な気持ちでした。ぼくは人間の複数性について記事を読んだときに「なるほど」と納得したのですが、人間の単数性の話が出てきたときに、「そういう考えもあるよね」と自然と思えました。これはぼくの無宗教の特性がよく表れているのではないかと思いました。
日本人の無宗教は、宗教の知識・背景を知らない。ひどい場合になると興味がない、末期になると煙たがるというものですが、無宗教ゆえの寛容性も同時に秘めているような気がしました。
自分の宗教を信じるのは自由、どの宗教も悪いとは思いません。ただし人を不幸にするようなものをぼくは宗教だとは思いませんし、そんなものは認めません。同じ人間なのに、宗教のために命を捨てる、または奪うのはおかしなことだと思いませんか(これも無宗教の考え方でしょうか。)どの宗教もおそらくは人の心の支えとなる、生き方の指針となるもののはずですが、人を不幸にすることもあるというのは奇妙なことです。
日本人の無宗教は悪という考え方が多い気がします。なぜでしょうか。それはあまりにも宗教に無関心ということだと思います。寛容以前の問題です。なのでこれからぼくは、宗教のことを何も知らない・興味もないというのを無宗教と呼んで、宗教の知識もあるしそれを毛嫌いもしないけど何も信仰するものがないというのを非宗教と呼ぶことにしました。非宗教だからこそ、見えるものがあるとそう思うのです。
これは決して信仰をもつ日本人を誹謗・中傷するものではありません。信仰するものがあるなら、それは自由です。
非宗教の人も少しは胸を張って生きていけると思います。
110113 review ルーマン
今回の授業ではルーマンのコミュニケーション観についての学習でした。彼の論では、主に二つの幹がありました。自己準拠と二重の偶発性です。
自己準拠は人間は自らの知識・考えの範囲でしか情報を受け取ることができない。つまり話者が何かを発したときに、それをそっくりそのまま受け手が理解するということはあり得ないというのが自己準拠です。これはコードモデルを真っ向から打ち崩すものです。話者のAという発言を聴き手がAもしくはA’という形で受け取る、これこそがコミュニケーションであるという考えはルーマンによって覆されたわけです。
これは普段何気なくコミュニケーションを取っているわたしたちからすれば、特に高等教育を受けているものからすれば当たり前のことのように思えますが、コミュニケーションの捉え方の一つであったコードモデルに異議を唱え、新たな論を展開することはとても難しいことだったでしょう。
さて、次に二重の偶発性です。二人の人がいるとします。うち一人はもう一人に話しかけたい、しかしどんな反応をされるか不安である。一方もう一人はというと、こちらも同様の不安を抱いている。そしてどちらもそのことをお互いにわかっているとしたら、お互いは相手の偶発性に依存していることになるというのが、二重の偶発性です。正直いうと、ぼく自身この二重の偶発性は理解していません。そのような二重の偶発性の例は理解できても、そのものの本質を理解しているわけではないです。
今までたくさんの先人たちのコミュニケーションの捉え方を見てきましたが、本当にみな独自の捉え方をしています。まったく同じ考えという人はいませんでした。またどの先人たちの考えにも賛同できる部分とそうでない部分がありました。コミュニケーションの概念は常に流れているといるのだと思います。そうするとコミュニケーションとは何かということは定義できない、ということになります。
では研究をやめてもいいのか、そうではありません。過去の研究があって、現在の研究があるように、現在の研究も未来の研究者たちにつながっているといえます。そしてそのような研究がそれぞれの時代の教育に影響されるわけですから、常にコミュニケーションとは何かということを問い続けていかなければなりません。
自己準拠は人間は自らの知識・考えの範囲でしか情報を受け取ることができない。つまり話者が何かを発したときに、それをそっくりそのまま受け手が理解するということはあり得ないというのが自己準拠です。これはコードモデルを真っ向から打ち崩すものです。話者のAという発言を聴き手がAもしくはA’という形で受け取る、これこそがコミュニケーションであるという考えはルーマンによって覆されたわけです。
これは普段何気なくコミュニケーションを取っているわたしたちからすれば、特に高等教育を受けているものからすれば当たり前のことのように思えますが、コミュニケーションの捉え方の一つであったコードモデルに異議を唱え、新たな論を展開することはとても難しいことだったでしょう。
さて、次に二重の偶発性です。二人の人がいるとします。うち一人はもう一人に話しかけたい、しかしどんな反応をされるか不安である。一方もう一人はというと、こちらも同様の不安を抱いている。そしてどちらもそのことをお互いにわかっているとしたら、お互いは相手の偶発性に依存していることになるというのが、二重の偶発性です。正直いうと、ぼく自身この二重の偶発性は理解していません。そのような二重の偶発性の例は理解できても、そのものの本質を理解しているわけではないです。
今までたくさんの先人たちのコミュニケーションの捉え方を見てきましたが、本当にみな独自の捉え方をしています。まったく同じ考えという人はいませんでした。またどの先人たちの考えにも賛同できる部分とそうでない部分がありました。コミュニケーションの概念は常に流れているといるのだと思います。そうするとコミュニケーションとは何かということは定義できない、ということになります。
では研究をやめてもいいのか、そうではありません。過去の研究があって、現在の研究があるように、現在の研究も未来の研究者たちにつながっているといえます。そしてそのような研究がそれぞれの時代の教育に影響されるわけですから、常にコミュニケーションとは何かということを問い続けていかなければなりません。
2011年1月6日木曜日
袖触れ合うも多生の縁
新しい年ですね。思えば昨年もあまりブログ書きませんでしたね。これからはしっかり書きたいですね、普段感じたこと・学習したことを残すという意味でも。
短いものであっても、残すのと残さないのは大きな違いですね。
というわけで、新年一つめのブログです。
今日は鹿児島から広島に行く日。いつものように高速バスで移動でした。すると隣は女性。普通なら女性と隣り合うことはないのですが。その女性がまたとてもかわいい人でした。Twitterでそのことをつぶやくと、「話しかけたら?」というコメント。背中を押され俄然その気に。しかしやっせんぼなぼくは、なかなか話しかけることができず、サービスエリアまで何も起こりませんでした。しかしサービスエリアでガムを渡すと、少し勇気が出てきました。そこから話しが少し弾みました。出身地、何をしているかなどを話しましたが、とても楽しい時間でした。その方も学生だとわかり、話しやすかったです。ほんの少ししか話せませんでしたが、今はとても満たされた気分です。
日常過ごしていて時々感じるのが、一般に日本人は隣にいる見知らぬ人とは話さないということです。以前本で読んだことがありますが、日本に住んだことのあるイギリス人が日本の電車に乗って、隣に座った日本人に話しかけたところ、変な目をされたという経験談でした。だから日本の電車はおもしろくないと彼は言ってました。
思うに隣に見知らぬ人が座ったときに、その人と話ができるというのもコミュニケーション能力の一つかもしれないですね。相手との距離を縮めながら、自己開示をする、相手に合わせる、相手のことを知っていくというのはコミュニケーションでしょう。機会があれば積極的に見知らぬ人と会話をしていきたいですね。それってとてもすばらしいことだと思いますから。とてもわくわくしますしね。加えて、英語教育でコミュニケーションを扱う人間として、それを探求していく姿勢、そのためにもコミュニケーションをたとえ見知らぬ人とでも図ろうとすることはとても重要です。
それにしてもかわいい人で、学生とは思えない程大人っぽい人でした。
短いものであっても、残すのと残さないのは大きな違いですね。
というわけで、新年一つめのブログです。
今日は鹿児島から広島に行く日。いつものように高速バスで移動でした。すると隣は女性。普通なら女性と隣り合うことはないのですが。その女性がまたとてもかわいい人でした。Twitterでそのことをつぶやくと、「話しかけたら?」というコメント。背中を押され俄然その気に。しかしやっせんぼなぼくは、なかなか話しかけることができず、サービスエリアまで何も起こりませんでした。しかしサービスエリアでガムを渡すと、少し勇気が出てきました。そこから話しが少し弾みました。出身地、何をしているかなどを話しましたが、とても楽しい時間でした。その方も学生だとわかり、話しやすかったです。ほんの少ししか話せませんでしたが、今はとても満たされた気分です。
日常過ごしていて時々感じるのが、一般に日本人は隣にいる見知らぬ人とは話さないということです。以前本で読んだことがありますが、日本に住んだことのあるイギリス人が日本の電車に乗って、隣に座った日本人に話しかけたところ、変な目をされたという経験談でした。だから日本の電車はおもしろくないと彼は言ってました。
思うに隣に見知らぬ人が座ったときに、その人と話ができるというのもコミュニケーション能力の一つかもしれないですね。相手との距離を縮めながら、自己開示をする、相手に合わせる、相手のことを知っていくというのはコミュニケーションでしょう。機会があれば積極的に見知らぬ人と会話をしていきたいですね。それってとてもすばらしいことだと思いますから。とてもわくわくしますしね。加えて、英語教育でコミュニケーションを扱う人間として、それを探求していく姿勢、そのためにもコミュニケーションをたとえ見知らぬ人とでも図ろうとすることはとても重要です。
それにしてもかわいい人で、学生とは思えない程大人っぽい人でした。
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