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2011年5月21日土曜日

新約聖書・レビを弟子にする

親共同訳・新約聖書・マルコによる福音書第2章17節より引用。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためである。」

この言葉の背景を知るためにもう少し引用しましょうか。
親共同訳・新約聖書・マルコによる福音書第2章15節から17節まで。

イエスがレビの家で食事の席についておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。ファリサイ派の律法学者は、イエスや罪人や徴税人と一緒に食事されるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためである。」

この話は、靜哲人先生のブログ: What we teachers are for という投稿を読んで思い出しました。靜先生のおっしゃる通り、教師を必要としているのは、わかる生徒ではなくわからない生徒でしょう。わからない生徒が納得するまで教えるというのが理想です。もちろんそれと同時に、わかる生徒のもつ可能性を伸ばすのも教師の役目だと思っています。

靜先生のブログはこちら Kyle’s Kungdom: What We Teachers Are For


実はわたしは靜先生に教わったことがあります。高校のときの先生が靜先生と交流があり、お願いして実現したものでした。あのときわたしが感じたことは、本当に「発音を徹底的に」の方だったということです。洋楽を使った発音練習の授業。曲はMariah CareyのAll I Want For Christmas Is Youだったのを覚えています。教室全体で円を作って、ぐるぐる回りながら一人ずつ先生のところで一行歌詞を読む。発音をできたと判断されたら、次の行に進めます。ダメならもう一度同じ行を練習。次の自分の番が来るまで練習です。なかなか先に進めなかったのを記憶しています。そうですね、あとは先生が真っ赤なシャツを着て、学校にいらっしゃったのも覚えています。もう何年も前のことです。靜先生から一度とはいえ、教わる機会があったのは幸運でした。鹿児島のあんな辺境地に来てくださったのですから。靜先生がこのブログをご覧になるとは思いませんが、ありがとうございましたとお礼を言いたいです。

2011年4月25日月曜日

4/20 (Wed) 地球的言語としての英語の復習

授業の復習をしていて、わたしの感じた指導要領と教師のあり方・関係というものを考えました。短いもので、大した内容は書いていませんが、わたしが教育について考えたことで、これからの教育観というものにつながると思ったので、記録しておきます。何年後かに見ることで、自分の進歩を感じることができるかもしれません(あの頃は恥ずかしいこと書いたなという思い出になるかもしれません)。


以下復習の内容:
今回の授業で感じたのは、現行の指導要領の下でどれだけ教師が柔軟になれるかということです。指導要領が定めていることは、無理が多く現実に即していないもので役に立たないものだと思っていました。しかし、指導要領を教師自身が柔軟に解釈してみてはどうでしょうか。
指導要領の掲げている「コミュニケーション」ですが、コミュニケーションが重要なのは確かです。コミュニケーションがしっかりと定義されておらず、そのことが現場に混乱を起こしていることが問題視されているのでしょうが、人との関わり合いの中で生きていく現代においてコミュニケーション能力の育成は必須です。そしてそのコミュニケーションは言語で行なわれるものがメインだと思います。ならば言語を教えるわたしたちは「コミュニケーション」を避けられないと思います。
コミュニケーションを重んじる精神、それは指導要領を参考してもよいと思います。指導要領も教師も生徒のための存在です。

2010年7月17日土曜日

教師像

教育の授業で耳にした教師像とは何か。

それはどのようなものか。
「教師は役者であれ」というもの。そして生徒の成長のためには進んで嫌われなさい、というもの。

基本的には賛成できない。
確かに生徒のやる気を喚起するため、発達を促すという意味では時には「役者」になるべきかもしれない。
時には嫌われるのを恐れず、指導するべきかもしれない。

だがいつでも役者として、生徒と接していては生徒も教師を人として見てくれることはないのではないだろうか。教師はありのままで接してよいと思う。生徒としかと向き合うには、それが大切だと感じる。

もうひとつ。生徒に嫌われてもよい。これは絶対にだめだろう。生徒の発達のためにきちんと指導はするが、好かれなければ生徒は、教師の言葉に耳を傾けない。授業も聞いてくれない。いくら立派な先生でも、嫌いな先生の話というのは、生徒はあまり聞きたがらないものだ。人は信頼関係がなければついてこない。生徒をある方向に導きたいと思うなら、好かれて信頼関係がなければ。

それを念頭に置いて、教育の場に臨まなければならない。