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2011年4月25日月曜日

『日本語が亡びるとき』 第一章アイオワの青い空の下で

この本を読んだ印象としては、堅い評論形式ではないということです。タイトルや表紙からはあまり想像できないかもしれないですが、中身は今読んだところまでは、あった出来事を書き連ねる形式です。そうなってくると、ものによっては内容の薄いものになってしまうという危険性もあるでしょう。わたしも始めの印象はそうでした。作者が何が言いたいかピンとこないな。それが第一印象です。

一章の概要: 作者がIWP(International Writing Program)という会に招かれたときの話です。彼女はそこで多くの外国人と知り会います。そこで知り合う人々が、もともと英語のネイティブスピーカーでない人が多いんです。彼女は彼らとの関わりの中で、あることを思います。「人はなんと様々な状況で書いているのだろう。そしてなんと様々な言語で書いているのだろうということです。

1. 不自然な境界線
手配されたバスに乗るとき、自然とアジア系の人間が乗るバスと、白人が乗るバスが分かれてしまうということを筆者は経験しています。そこには不自然な境界線があるようです。わたしたちは見た目で、彼らとわたしは違うなと判断してしまいがちです。外見が大きく異なることは、言語や価値観まで違うことだというふうに、わたしたちは深層部分で解釈してしまうことすらあるのではないでしょうか。それが不自然な境界線を生じさせたのかもしれません。

2. 様々なバックグラウンドを持つ参加者たち
作者が紹介しているIWPの参加者たちは皆が特殊なバックグラウンドを持った者ばかりです。それはまさに島国日本ではあまり経験できないことかもしれません。モンゴル人のダシュニムは大草原の中で大家族とテント暮らしという、わたしたちがステレオタイプで見そうなモンゴル式の生活をしていました。そんな中旧ソビエト政府が自らの勢力下にある国から優秀な少年少女をソビエトに招き、ロシア語とマルクス・レーニン主義とを教え込もうという政策を始めました。しかしそれぞれの国の政府の高官の子弟ばかりが集まるので、共産主義に立ち返ろうと、僻地に住む農民や漁民の子を呼び寄せました。彼もその一人だったのです。
ヴェトナムからきた少女のような作家は、戦争のようやく終結したハノイで生まれた。チリ・アルゼンチンなど南アメリカからの作家は軍事政権や内乱を生きてきた。ボスニアの作家は唯一のイスラム教信者で、膝に銃弾の破片が埋まったままである、というようなまったく異なった環境を生きてきた人たちばかりです。

3. 皆が自分の言葉で書いている
地球のあらゆるところで、皆が自分の言葉で書いている。作者にそんな観念が生まれます。IWPの参加者の共通点ともいえるかもしれません。筆者はこうも言います。「もちろん、人はいつの時代でも<自分たちの言葉>で書いていたわけではない。(p.44)」わたしたちにはそんな感覚がありません。自分の言葉で書くなんて当たり前です。他の言語はどうなのでしょうか。
筆者はp.45でウクライナ語を例に挙げています。ウクライナ語はソビエト時代政権の影響により、禁じられたり緩和されたりと、長い間その時代の政治家たちにずっと振り回されてきました。ソビエトが崩壊したとき、ウクライナではロシア語を話す人の方が多かったにも関わらず、ウクライナ語だけが公用語となりました。メディアや公文書などがロシア語であるにも関わらず、です。ロシア語を母語と話す人たちも「自分たちの言葉」というとウクライナ語を指すと思っている人が多いというので納得はできます。いずれはウクライナ語で書く作家が増えていくとも筆者は述べています。
ヘブライ語も話し言葉としては一度なくなったも同然でしたが、復興運動のおかげもありイスラエルの母語となっています。

4. 普遍言語としての英語
皆が自分の言葉で書いている、とは言いながらも英語がそれにとって代わるのではないかということは、わたしたち日本人が意識すべき危惧です。特に、前述したような「言語の危機」を経験したことのない日本だからこそ意識すべきです。それが将来起こる可能性は否定できません。

英語はとても便利です。Wikipediaや学術論文を探してみても、英語の文献は非常に多いです。日本人であっても日本語よりもむしろ、世界的に読んでもらえる英語で書くくらいなので、普遍的な言語としての英語の存在は大きいです。

5. 日本の英語教育の脅威
日本は英語教育に力を入れようとしています。現に力を入れているでしょう。しかしそれは正しい見地に基づく英語教育ではなく、ひたすら授業を英語化しようとしたり、英語化を推し進めようとしているものです。そのことに問題があると思います。ただ「英語を話せるようになりなさいを前面に打ち出した教育政策ではダメだ」ということでしょう。

さらに、日本人は西洋文化や英語を話せること・扱えることに一つのステータスを感じる傾向があるように思います。高校のときにも、留学経験のある一つの年上の方にいました。「アメリカでは・・・なんだけど、日本では・・・で、そういうところが嫌い」とか「ダメ」だとか。日本人である自分を否定していて、アメリカ人になれるなら今すぐにでもアメリカ人になりたいといった感じでした。わたしは日本人として残念に思います。自分の生まれた国に誇りを持ったうえで、アメリカ文化を尊敬すればいいと思うのですが。

これまで言語がなくなるという危機を経験したことがない日本。便利であらゆる人に伝わる英語ばかりに教育の関心が向いてしまい、いつかわたしたちの言葉である日本語が失われるということは、考えられることなのです。


ではわたしたちは英語教育において何をすべきか。課題は何かということを書くべきなのでしょうが、まだこの本も読みだして日が浅いので、少しずつ見解を出していきたいと思います。今回は問題意識を持つことと、その問題を挙げておくことに留めておきます。

2011年4月24日日曜日

英語教育のポリティクス: 第一章<競争と格差>から<協同と平等>の英語教育へ

授業で『英語教育のポリティクス』を読んでいます。
『英語教育のポリティクス』
三友社出版 (2009/08)
江利川 春雄


少しずつまとめていこうかなと思います。

1 All English反対
まずこの本を読んでいてすぐに感じることのできる主題でしょう。作者はAll Englishに反対する理由を多く挙げていますが、わたしはそのうちつを取り上げます。

(1)母語を身につけることで教育効果を上げる
高校の英語教育には、母語による高度な「認知学習言語能力」が不可欠です。よく「英語は英語で考えるようにする」だとか、「英語の回路」とかいう発想を聞きます。しかしそれは最終的なゴールとしての目標設定としてはよいかもしれませんが、発展途上の学習者にはそれは無理な話です。日本語で思考をして、それを自分の中で英語にしていくという作業が必要だと思います。

(2)指導の実態に合わない
実際の授業では、受験対策や文法指導があります。そんな中all Englishの授業はあまりにも現実離れしています。All Englishの授業をしても生徒たちは理解できなくなるだけです。

(3)教師の裁量権侵害
All Englishの授業を指導要領で定めて教師に強いることは、現場を一番わかっている教師の臨機応変に対応しようとする柔軟性を奪うと思います。生徒や学校のレベルによっては、all Englishの授業が成り立つこともあるかもしれません。それは教師が判断すればいいことです。上が介入しすぎて、むしろうまくいかないように感じます。

実際教員はオーラル・コミュニケーションの時間を割いて、文法指導や文法授業を行なっている事態もあります。

2. 英語教育における格差
小学校での英語教育が始まることで、塾に行く生徒が増えている(p.25)。このことにより格差が助長されるといいます。小学校での英語教育が導入される前と後で、実際にどれくらいの生徒が行くようになったのかわかりませんが、このままでは格差は助長される可能性があります。入試や生徒が必要としている能力を無視して、コミュニケーション中心の授業を進めていって文法指導がおざなりになれば、塾に行っている生徒とそうでない生徒では大きな差が出るでしょう。

3. どんな目的を持つか
p.36では「目的論の大切さ」と称してあります。日本の英語教育の目的とは何でしょうか?それがまったく考えられないままで、英語教育が語られていないでしょうか。こう言うとおそらく、「コミュニケーション能力の育成が目的だ」という方もいらっしゃるのでしょう。しかしそのコミュニケーション能力とは何なのでしょうか。この「コミュニケーション能力」とは、ぺらぺら英語を話すことという風に解釈されていると思います。ぺらぺら話せるというと、かっこいいというイメージを抱きがちですが、話していることの中身も「ぺらぺら」というのでは困ります。(これはわたしの大学の先生も述べていることです。)自分で考えたことを英語で表現する、そして英語で情報を受け取る。それが英語教育の目的だと、わたしは考えています。(これもこれから変わっていくのでしょうね)。

4. 「学びの共同体」を築く英語の授業
「学びの共同体」というワードが比較的頻繁に登場します。教え合うこと、学び合うこと、それが「学びの共同体」です。英語の授業では、この「学びの共同体」を築くことが大切だと著者は言っています。小学校の英語教育についての部分でも、教え合いが有効だと言っています(p.35)。自分なりの結論も持っていないで書いてしまいましたが、わたしはまだ「学び合い」には賛成でも反対でもありません。それはわたしがそれについて何も知らなすぎるからです。これについてはゼミの友人たちと話をしたこともありますが、まだまとまりません。自分なりの意見が出たら、また書きます。

友人の奥君(奥ism: http://varrie-alyabani-uk.blogspot.com/2011/04/blog-post_21.html)が頑張っているのを参考に自分でもトライしてみましたが、なかなか書くのは難しいですね。

2010年10月24日日曜日

村上 龍 限りなく透明に近いブルー

上記の文庫本を読んだので、少し書評でも書こうかと思います。

本書は、ハウスを舞台に若者たちの生活に焦点を当てて書かれた小説です。
その生活の中身は、セックス・ドラッグ・暴力など非常に世俗的である意味、低俗なものです。
しかし、これは本作の表層しか捉えない場合の見解です。ゆっくり読み解いていけばとてもわたしたちにも身近な話だとわかります。単にセックスやドラッグに溺れた若者たちの話ではないわけです。

彼らの生活を見ていると、とても刹那的で享楽主義的な生き方をしています。未来が見えない中で、今ただその瞬間を生きるという生活。いい言い方をすれば、「今を生きる」ですが。
しかし彼らはそのような生活を楽しむ一方で、苦しんでいるわけでもあるのです。先が見えない恐怖、もう戻れない過去。彼らは人間誰もが求める安寧というものを探すことに失敗し、どうしていいかわからない状況に陥ってしまった若者たちだといえます。

特に、ケイとヨシヤマの関係は悲しいものでしょう。ヨシヤマは暴力的で一方的に悪人のように描かれています。確かに何があっても暴力に訴えるのはよくない。ましてや女性に暴力をふるっているのですから、悪者として描かれるわけですが、なんのきっかけもなく暴力的になる人間はあまりいないように感じるのです。人間は成長する過程で正しい形で愛されないと、自分も愛の形を知ることなく大人になります。そして恋人・子どもができても、正しい愛情表現ができない人間になってしまいます。もしかすると、暴力をふるうこと自体が愛の証となりうるのです。その面でヨシヤマは人の愛し方のわからない、人間として最も根本的なもの「愛」というものを知らない被害者であるともいえます。これは何も稀なケースではなく、親子関係が希薄になってしまった現代全体としていえます。

また、美しくて儚い過去の回想。オキナワとリュウの会話。オキナワがリュウに再びフルートをするように勧める場面。オキナワはリュウが昔吹いたフルートに何かを感じて、ジャンキーになってからもその気持ちを忘れられない。あの時に感じたものを自分も持っていたら、自分はヘロインをやめるのだろうかという自問自答には、何かを見つけることができたであろう過去へ戻りたいという気持ちと、今の生活から抜け出せるのなら、抜け出したいという気持ちが表れている。しかし彼は現実はまったく逆で、おそらくその道はないだろうということを悟っているようにも見えます。
ぼくも時々感じる虚無感。自分は何がしたいのか、何のためにこの場にいるのか時々考えることがあります。そんなに重々しく考えるわけではないが、ふと自分とはどういう存在なのだろうかと考えるのです。この場面のオキナワもそのような虚無感に襲われているのでしょう。しかも彼の場合ジャンキーですから、考えたところで、答えを見つけることはできそうにありません。

この本はあまりにも低俗であり、過ちばかりの彼らの生活を若者には読ませたくないという意見の人もいるでしょう。しかし、ぼくは低俗で過ちばかりの生活だからこそ、若者に何かを訴えかけられることがあるのだと思います。ある意味、彼らは反面教師として、未来を切り拓いていく若者たちにこのような生活をさせたくないというメッセージが込られめているのかもしれないですし、またたとえ落ちぶれた生活をしている人がいても彼らにも事情があるのだということ、戻りたくても戻れない状態にあるのだということ、そんな人たちを見たときに自分は何をするか、手を差し伸べるか、巻き込まれまいと避けるのかといったことを考えてもらいたいということもあるかもしれません。

小説が本当に伝えたいことは、作者にしかわからないのですが、解釈は自由です。ぼくは勝手ながらこのようなメッセージがあると解釈しました。個人的にはとても素晴らしい良書であったといいたいです。
この本には別な読み方があるでしょう。それを発見し、何を得るか・考えるかは個人に委ねられています。興味があれば、手にお取り下さい。