2010年10月24日日曜日

村上 龍 限りなく透明に近いブルー

上記の文庫本を読んだので、少し書評でも書こうかと思います。

本書は、ハウスを舞台に若者たちの生活に焦点を当てて書かれた小説です。
その生活の中身は、セックス・ドラッグ・暴力など非常に世俗的である意味、低俗なものです。
しかし、これは本作の表層しか捉えない場合の見解です。ゆっくり読み解いていけばとてもわたしたちにも身近な話だとわかります。単にセックスやドラッグに溺れた若者たちの話ではないわけです。

彼らの生活を見ていると、とても刹那的で享楽主義的な生き方をしています。未来が見えない中で、今ただその瞬間を生きるという生活。いい言い方をすれば、「今を生きる」ですが。
しかし彼らはそのような生活を楽しむ一方で、苦しんでいるわけでもあるのです。先が見えない恐怖、もう戻れない過去。彼らは人間誰もが求める安寧というものを探すことに失敗し、どうしていいかわからない状況に陥ってしまった若者たちだといえます。

特に、ケイとヨシヤマの関係は悲しいものでしょう。ヨシヤマは暴力的で一方的に悪人のように描かれています。確かに何があっても暴力に訴えるのはよくない。ましてや女性に暴力をふるっているのですから、悪者として描かれるわけですが、なんのきっかけもなく暴力的になる人間はあまりいないように感じるのです。人間は成長する過程で正しい形で愛されないと、自分も愛の形を知ることなく大人になります。そして恋人・子どもができても、正しい愛情表現ができない人間になってしまいます。もしかすると、暴力をふるうこと自体が愛の証となりうるのです。その面でヨシヤマは人の愛し方のわからない、人間として最も根本的なもの「愛」というものを知らない被害者であるともいえます。これは何も稀なケースではなく、親子関係が希薄になってしまった現代全体としていえます。

また、美しくて儚い過去の回想。オキナワとリュウの会話。オキナワがリュウに再びフルートをするように勧める場面。オキナワはリュウが昔吹いたフルートに何かを感じて、ジャンキーになってからもその気持ちを忘れられない。あの時に感じたものを自分も持っていたら、自分はヘロインをやめるのだろうかという自問自答には、何かを見つけることができたであろう過去へ戻りたいという気持ちと、今の生活から抜け出せるのなら、抜け出したいという気持ちが表れている。しかし彼は現実はまったく逆で、おそらくその道はないだろうということを悟っているようにも見えます。
ぼくも時々感じる虚無感。自分は何がしたいのか、何のためにこの場にいるのか時々考えることがあります。そんなに重々しく考えるわけではないが、ふと自分とはどういう存在なのだろうかと考えるのです。この場面のオキナワもそのような虚無感に襲われているのでしょう。しかも彼の場合ジャンキーですから、考えたところで、答えを見つけることはできそうにありません。

この本はあまりにも低俗であり、過ちばかりの彼らの生活を若者には読ませたくないという意見の人もいるでしょう。しかし、ぼくは低俗で過ちばかりの生活だからこそ、若者に何かを訴えかけられることがあるのだと思います。ある意味、彼らは反面教師として、未来を切り拓いていく若者たちにこのような生活をさせたくないというメッセージが込られめているのかもしれないですし、またたとえ落ちぶれた生活をしている人がいても彼らにも事情があるのだということ、戻りたくても戻れない状態にあるのだということ、そんな人たちを見たときに自分は何をするか、手を差し伸べるか、巻き込まれまいと避けるのかといったことを考えてもらいたいということもあるかもしれません。

小説が本当に伝えたいことは、作者にしかわからないのですが、解釈は自由です。ぼくは勝手ながらこのようなメッセージがあると解釈しました。個人的にはとても素晴らしい良書であったといいたいです。
この本には別な読み方があるでしょう。それを発見し、何を得るか・考えるかは個人に委ねられています。興味があれば、手にお取り下さい。

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