この本を読んだ印象としては、堅い評論形式ではないということです。タイトルや表紙からはあまり想像できないかもしれないですが、中身は今読んだところまでは、あった出来事を書き連ねる形式です。そうなってくると、ものによっては内容の薄いものになってしまうという危険性もあるでしょう。わたしも始めの印象はそうでした。作者が何が言いたいかピンとこないな。それが第一印象です。
一章の概要: 作者がIWP(International Writing Program)という会に招かれたときの話です。彼女はそこで多くの外国人と知り会います。そこで知り合う人々が、もともと英語のネイティブスピーカーでない人が多いんです。彼女は彼らとの関わりの中で、あることを思います。「人はなんと様々な状況で書いているのだろう。そしてなんと様々な言語で書いているのだろうということです。
1. 不自然な境界線
手配されたバスに乗るとき、自然とアジア系の人間が乗るバスと、白人が乗るバスが分かれてしまうということを筆者は経験しています。そこには不自然な境界線があるようです。わたしたちは見た目で、彼らとわたしは違うなと判断してしまいがちです。外見が大きく異なることは、言語や価値観まで違うことだというふうに、わたしたちは深層部分で解釈してしまうことすらあるのではないでしょうか。それが不自然な境界線を生じさせたのかもしれません。
2. 様々なバックグラウンドを持つ参加者たち
作者が紹介しているIWPの参加者たちは皆が特殊なバックグラウンドを持った者ばかりです。それはまさに島国日本ではあまり経験できないことかもしれません。モンゴル人のダシュニムは大草原の中で大家族とテント暮らしという、わたしたちがステレオタイプで見そうなモンゴル式の生活をしていました。そんな中旧ソビエト政府が自らの勢力下にある国から優秀な少年少女をソビエトに招き、ロシア語とマルクス・レーニン主義とを教え込もうという政策を始めました。しかしそれぞれの国の政府の高官の子弟ばかりが集まるので、共産主義に立ち返ろうと、僻地に住む農民や漁民の子を呼び寄せました。彼もその一人だったのです。
ヴェトナムからきた少女のような作家は、戦争のようやく終結したハノイで生まれた。チリ・アルゼンチンなど南アメリカからの作家は軍事政権や内乱を生きてきた。ボスニアの作家は唯一のイスラム教信者で、膝に銃弾の破片が埋まったままである、というようなまったく異なった環境を生きてきた人たちばかりです。
3. 皆が自分の言葉で書いている
地球のあらゆるところで、皆が自分の言葉で書いている。作者にそんな観念が生まれます。IWPの参加者の共通点ともいえるかもしれません。筆者はこうも言います。「もちろん、人はいつの時代でも<自分たちの言葉>で書いていたわけではない。(p.44)」わたしたちにはそんな感覚がありません。自分の言葉で書くなんて当たり前です。他の言語はどうなのでしょうか。
筆者はp.45でウクライナ語を例に挙げています。ウクライナ語はソビエト時代政権の影響により、禁じられたり緩和されたりと、長い間その時代の政治家たちにずっと振り回されてきました。ソビエトが崩壊したとき、ウクライナではロシア語を話す人の方が多かったにも関わらず、ウクライナ語だけが公用語となりました。メディアや公文書などがロシア語であるにも関わらず、です。ロシア語を母語と話す人たちも「自分たちの言葉」というとウクライナ語を指すと思っている人が多いというので納得はできます。いずれはウクライナ語で書く作家が増えていくとも筆者は述べています。
ヘブライ語も話し言葉としては一度なくなったも同然でしたが、復興運動のおかげもありイスラエルの母語となっています。
4. 普遍言語としての英語
皆が自分の言葉で書いている、とは言いながらも英語がそれにとって代わるのではないかということは、わたしたち日本人が意識すべき危惧です。特に、前述したような「言語の危機」を経験したことのない日本だからこそ意識すべきです。それが将来起こる可能性は否定できません。
英語はとても便利です。Wikipediaや学術論文を探してみても、英語の文献は非常に多いです。日本人であっても日本語よりもむしろ、世界的に読んでもらえる英語で書くくらいなので、普遍的な言語としての英語の存在は大きいです。
5. 日本の英語教育の脅威
日本は英語教育に力を入れようとしています。現に力を入れているでしょう。しかしそれは正しい見地に基づく英語教育ではなく、ひたすら授業を英語化しようとしたり、英語化を推し進めようとしているものです。そのことに問題があると思います。ただ「英語を話せるようになりなさいを前面に打ち出した教育政策ではダメだ」ということでしょう。
さらに、日本人は西洋文化や英語を話せること・扱えることに一つのステータスを感じる傾向があるように思います。高校のときにも、留学経験のある一つの年上の方にいました。「アメリカでは・・・なんだけど、日本では・・・で、そういうところが嫌い」とか「ダメ」だとか。日本人である自分を否定していて、アメリカ人になれるなら今すぐにでもアメリカ人になりたいといった感じでした。わたしは日本人として残念に思います。自分の生まれた国に誇りを持ったうえで、アメリカ文化を尊敬すればいいと思うのですが。
これまで言語がなくなるという危機を経験したことがない日本。便利であらゆる人に伝わる英語ばかりに教育の関心が向いてしまい、いつかわたしたちの言葉である日本語が失われるということは、考えられることなのです。
ではわたしたちは英語教育において何をすべきか。課題は何かということを書くべきなのでしょうが、まだこの本も読みだして日が浅いので、少しずつ見解を出していきたいと思います。今回は問題意識を持つことと、その問題を挙げておくことに留めておきます。
一章の概要: 作者がIWP(International Writing Program)という会に招かれたときの話です。彼女はそこで多くの外国人と知り会います。そこで知り合う人々が、もともと英語のネイティブスピーカーでない人が多いんです。彼女は彼らとの関わりの中で、あることを思います。「人はなんと様々な状況で書いているのだろう。そしてなんと様々な言語で書いているのだろうということです。
1. 不自然な境界線
手配されたバスに乗るとき、自然とアジア系の人間が乗るバスと、白人が乗るバスが分かれてしまうということを筆者は経験しています。そこには不自然な境界線があるようです。わたしたちは見た目で、彼らとわたしは違うなと判断してしまいがちです。外見が大きく異なることは、言語や価値観まで違うことだというふうに、わたしたちは深層部分で解釈してしまうことすらあるのではないでしょうか。それが不自然な境界線を生じさせたのかもしれません。
2. 様々なバックグラウンドを持つ参加者たち
作者が紹介しているIWPの参加者たちは皆が特殊なバックグラウンドを持った者ばかりです。それはまさに島国日本ではあまり経験できないことかもしれません。モンゴル人のダシュニムは大草原の中で大家族とテント暮らしという、わたしたちがステレオタイプで見そうなモンゴル式の生活をしていました。そんな中旧ソビエト政府が自らの勢力下にある国から優秀な少年少女をソビエトに招き、ロシア語とマルクス・レーニン主義とを教え込もうという政策を始めました。しかしそれぞれの国の政府の高官の子弟ばかりが集まるので、共産主義に立ち返ろうと、僻地に住む農民や漁民の子を呼び寄せました。彼もその一人だったのです。
ヴェトナムからきた少女のような作家は、戦争のようやく終結したハノイで生まれた。チリ・アルゼンチンなど南アメリカからの作家は軍事政権や内乱を生きてきた。ボスニアの作家は唯一のイスラム教信者で、膝に銃弾の破片が埋まったままである、というようなまったく異なった環境を生きてきた人たちばかりです。
3. 皆が自分の言葉で書いている
地球のあらゆるところで、皆が自分の言葉で書いている。作者にそんな観念が生まれます。IWPの参加者の共通点ともいえるかもしれません。筆者はこうも言います。「もちろん、人はいつの時代でも<自分たちの言葉>で書いていたわけではない。(p.44)」わたしたちにはそんな感覚がありません。自分の言葉で書くなんて当たり前です。他の言語はどうなのでしょうか。
筆者はp.45でウクライナ語を例に挙げています。ウクライナ語はソビエト時代政権の影響により、禁じられたり緩和されたりと、長い間その時代の政治家たちにずっと振り回されてきました。ソビエトが崩壊したとき、ウクライナではロシア語を話す人の方が多かったにも関わらず、ウクライナ語だけが公用語となりました。メディアや公文書などがロシア語であるにも関わらず、です。ロシア語を母語と話す人たちも「自分たちの言葉」というとウクライナ語を指すと思っている人が多いというので納得はできます。いずれはウクライナ語で書く作家が増えていくとも筆者は述べています。
ヘブライ語も話し言葉としては一度なくなったも同然でしたが、復興運動のおかげもありイスラエルの母語となっています。
4. 普遍言語としての英語
皆が自分の言葉で書いている、とは言いながらも英語がそれにとって代わるのではないかということは、わたしたち日本人が意識すべき危惧です。特に、前述したような「言語の危機」を経験したことのない日本だからこそ意識すべきです。それが将来起こる可能性は否定できません。
英語はとても便利です。Wikipediaや学術論文を探してみても、英語の文献は非常に多いです。日本人であっても日本語よりもむしろ、世界的に読んでもらえる英語で書くくらいなので、普遍的な言語としての英語の存在は大きいです。
5. 日本の英語教育の脅威
日本は英語教育に力を入れようとしています。現に力を入れているでしょう。しかしそれは正しい見地に基づく英語教育ではなく、ひたすら授業を英語化しようとしたり、英語化を推し進めようとしているものです。そのことに問題があると思います。ただ「英語を話せるようになりなさいを前面に打ち出した教育政策ではダメだ」ということでしょう。
さらに、日本人は西洋文化や英語を話せること・扱えることに一つのステータスを感じる傾向があるように思います。高校のときにも、留学経験のある一つの年上の方にいました。「アメリカでは・・・なんだけど、日本では・・・で、そういうところが嫌い」とか「ダメ」だとか。日本人である自分を否定していて、アメリカ人になれるなら今すぐにでもアメリカ人になりたいといった感じでした。わたしは日本人として残念に思います。自分の生まれた国に誇りを持ったうえで、アメリカ文化を尊敬すればいいと思うのですが。
これまで言語がなくなるという危機を経験したことがない日本。便利であらゆる人に伝わる英語ばかりに教育の関心が向いてしまい、いつかわたしたちの言葉である日本語が失われるということは、考えられることなのです。
ではわたしたちは英語教育において何をすべきか。課題は何かということを書くべきなのでしょうが、まだこの本も読みだして日が浅いので、少しずつ見解を出していきたいと思います。今回は問題意識を持つことと、その問題を挙げておくことに留めておきます。