水村美苗著『日本語が亡びるとき』を教材とした授業があることは以前のブログでも書いたと思います。一応もう一回説明しておくと、その授業では1人ずつ2分ほどのスピーチを作って、それをクラスの中で発表し合う授業です。
最近、『日本語が亡びるとき』の内容を受け、クラス全体である意見が多く聞かれるようになりました。それは「英語はコミュニケーションのためのツールである」ということ。
多くの人が学問や情報入手のために使うようになった英語。日本語はその学問・情報入手という観点では価値をほとんど失ってしまった。人々は日本語で書くこと、読むことをやめてしまうのではないか。そのようなことが危惧される中で、日本語が亡びるのを食い止めるには何ができるか。その解決策の一つとして、「英語はあくまでコミュニケーションツールの一つである」ということを念頭に置き、教育を進めるという意見でした。
しかしわたしはその意見にあえて異議を唱えようかなと考えました。
「英語をコミュニケーションツールの一つとして捉えること」の問題点、それは英語を言語として捉えていないということです。英語も日本語と同じ言語です、言葉です。英語には英語の言語としての魅力があるでしょう。わたしが読んだ洋書の数はほんのごくわずかなものですが、それら洋書が与えてくれた、読書することの喜びや興奮というものは、和書に決して劣るものではありませんでした。英語にだって、日本語にはない独自の味わいがあります。それをツールの一つだと割り切っていいものかどうか。当然日本全国民が洋書を読む必要はありません。英文の美しさ・趣に触れる必要もないと思います。ましてやそれを全児童・生徒に教え込むことなんてできやしません。しかし言語を教える者として、言語をすべて同等のものとして扱うという精神は必要でしょう。外国語を尊重する、尊敬するとでも言い換えられましょうか。
そのことは教育基本法の理念にも適っているのではないかなと思います。教育基本法第二条の五です。「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」とあります。他国尊重とは、他国の言語を尊重することです。ある国を国たらしめるのには、言語が大きく関わるとわたしは考えるからです。国が持つ価値観や生活、環境といったものは言語が関わっていると思うからです。言語を尊重できないのに、国を尊重することができるでしょうか。わたしはそうは思いません。
英語を母国語とする人もいるということを忘れてはいけません。彼らにとっての英語は、わたしたちにとっての日本語と同じなのです。ただのツールではないのです。彼らにとっては英語が自分の文化なのです。自分のアイデンティティなのです。
わたしが危惧するのは、「英語はツール」と割り切るのは、英語を母国語としている人々のことが軽視されてしまうのではないかという点です。
これがわたしが「英語はコミュニケーションツールである」という意見に反対する言い分です。
このことはわたしが最近本当に考えていることです。教える側の人間は言語というものを平等に扱い、少なくとも教える際には自分のバイアスというものを取り払うことが重要かな、と思います。
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