2010年10月30日土曜日

きっかけを与えるということ

先日ある先生の授業を受けていて、とても素晴らしいなと思う点がありました。
それは学生の解答に対して、学生に学習を促すようなきっかけを与えたことです。

教育界ではこのフィードバックを与えるということが重要視されているように感じます。「生徒に正しいフィードバックを返しなさい」だとか、「フィードバックを返されなかった生徒の気持ち」とかいろいろなことが言われるわけですが、学校に教師のフィードバックについて模範とできる先生がいます。

その先生は「言語を教えることは愛だ」と言っている先生なのですが、本当にそれを実行している先生だと感じています。言葉について教えることによって、言葉をかけることによって、学生たちの成長を促す先生であると感じます。

この前の授業では、ある学生が先生の問いに答えました。質問はMcDonaldのキャッチフレーズでもあるI'm lovin' it.のlovingの相aspectを答えるというものでした。その学生は-momentaryと答えました。答えはこれで合っています。学生は加えてこう答えていました。「だんだん好きになっていくというニュアンスを含んでいる」と。すると、先生は「君はいい考え方をしているな」とにこやかに言いました。人がやる気になるのってこういう何気ない一言だと思うのです。子どものときに何かを褒められて一生懸命になるのって多くの人が経験することだと思うのですが、大人になっていくとだんだんそういうのってなくなりますよね。でも、その先生はそういう気持ちにさせることが上手だと思います。それは先生の言葉から誠実さだとか、先生の優しさが伝わるからです。教師の仕事って教えることだけではなくて、このようなきっかけを与えられる人なのでしょう。

一緒にいる人たちまで嬉しくなるような授業の一つの場面でした。

読んでくれてありがとうございます。

2010年10月24日日曜日

村上 龍 限りなく透明に近いブルー

上記の文庫本を読んだので、少し書評でも書こうかと思います。

本書は、ハウスを舞台に若者たちの生活に焦点を当てて書かれた小説です。
その生活の中身は、セックス・ドラッグ・暴力など非常に世俗的である意味、低俗なものです。
しかし、これは本作の表層しか捉えない場合の見解です。ゆっくり読み解いていけばとてもわたしたちにも身近な話だとわかります。単にセックスやドラッグに溺れた若者たちの話ではないわけです。

彼らの生活を見ていると、とても刹那的で享楽主義的な生き方をしています。未来が見えない中で、今ただその瞬間を生きるという生活。いい言い方をすれば、「今を生きる」ですが。
しかし彼らはそのような生活を楽しむ一方で、苦しんでいるわけでもあるのです。先が見えない恐怖、もう戻れない過去。彼らは人間誰もが求める安寧というものを探すことに失敗し、どうしていいかわからない状況に陥ってしまった若者たちだといえます。

特に、ケイとヨシヤマの関係は悲しいものでしょう。ヨシヤマは暴力的で一方的に悪人のように描かれています。確かに何があっても暴力に訴えるのはよくない。ましてや女性に暴力をふるっているのですから、悪者として描かれるわけですが、なんのきっかけもなく暴力的になる人間はあまりいないように感じるのです。人間は成長する過程で正しい形で愛されないと、自分も愛の形を知ることなく大人になります。そして恋人・子どもができても、正しい愛情表現ができない人間になってしまいます。もしかすると、暴力をふるうこと自体が愛の証となりうるのです。その面でヨシヤマは人の愛し方のわからない、人間として最も根本的なもの「愛」というものを知らない被害者であるともいえます。これは何も稀なケースではなく、親子関係が希薄になってしまった現代全体としていえます。

また、美しくて儚い過去の回想。オキナワとリュウの会話。オキナワがリュウに再びフルートをするように勧める場面。オキナワはリュウが昔吹いたフルートに何かを感じて、ジャンキーになってからもその気持ちを忘れられない。あの時に感じたものを自分も持っていたら、自分はヘロインをやめるのだろうかという自問自答には、何かを見つけることができたであろう過去へ戻りたいという気持ちと、今の生活から抜け出せるのなら、抜け出したいという気持ちが表れている。しかし彼は現実はまったく逆で、おそらくその道はないだろうということを悟っているようにも見えます。
ぼくも時々感じる虚無感。自分は何がしたいのか、何のためにこの場にいるのか時々考えることがあります。そんなに重々しく考えるわけではないが、ふと自分とはどういう存在なのだろうかと考えるのです。この場面のオキナワもそのような虚無感に襲われているのでしょう。しかも彼の場合ジャンキーですから、考えたところで、答えを見つけることはできそうにありません。

この本はあまりにも低俗であり、過ちばかりの彼らの生活を若者には読ませたくないという意見の人もいるでしょう。しかし、ぼくは低俗で過ちばかりの生活だからこそ、若者に何かを訴えかけられることがあるのだと思います。ある意味、彼らは反面教師として、未来を切り拓いていく若者たちにこのような生活をさせたくないというメッセージが込られめているのかもしれないですし、またたとえ落ちぶれた生活をしている人がいても彼らにも事情があるのだということ、戻りたくても戻れない状態にあるのだということ、そんな人たちを見たときに自分は何をするか、手を差し伸べるか、巻き込まれまいと避けるのかといったことを考えてもらいたいということもあるかもしれません。

小説が本当に伝えたいことは、作者にしかわからないのですが、解釈は自由です。ぼくは勝手ながらこのようなメッセージがあると解釈しました。個人的にはとても素晴らしい良書であったといいたいです。
この本には別な読み方があるでしょう。それを発見し、何を得るか・考えるかは個人に委ねられています。興味があれば、手にお取り下さい。

2010年10月21日木曜日

教育実習から学んだこと

教育実習が終わりました。
とてもいい経験になりました。

この実習の一ヶ月で学んだなと思うことを書いていきたいと思います。

一つめは秘めたる情熱も立派なもので、それは人を大きく動かしえるということです。

多くの人が引きつけられるのは、熱い人・強く人に訴えかける人。もちろんそんな人は苦手という人もいますが、そういう人が目立つということもあって、よく人を引っ張っていくのはこのような人々です。しかし、このような人々ばかりが流れを作っていくのではない、人を動かすのではないということを感じました。

クールに見える人、物静かな人、ラフな人。いろんな人がいます。先生だって同じです。いろんな先生がいました。でも話をしたり、指導してもらうといかにその先生たちが真剣に生徒に向き合っているかということがわかります。それぞれの考え方・スタンスをもっていて、そして教育に携わっている。そんな姿を見て実習期間を過ごしました。そんな先生にぼくはとても心を動かされたと思います。

どんな分野でもそうだと思います。
素晴らしい人・何か特別なものをもっている人はそれが常に前面に現れなくても、いつでも人を動かす力をもっています。

ぼくも秘めたるものをもつ人間になりたいな。その秘めたるもので、いろんな人にいい影響を与えられたら、それってとてもすごいことだと思うのです。そんな人間になれるように残りの大学生活を過ごさなきゃと感じています。

2010年9月23日木曜日

夏に再開した人

この夏にある人に再開しました。
その人(Sさん)に学んだことを書きたいと思います。

Sさんは高校時代の部活の後輩です。2つ年下だから関わりは少ないはずなのですが、ぼくがAO入試で大学を早く決めたこともあってか、話すことが多かった人だと思います。

ぼくは大学に行ってからもSさんと連絡を取っていました。大学3年生になった今、Sさんも大学1年生。
Sさんは福岡の大学に進学し、この夏会いに行きました。

Sさんはとても純粋で前向きな人です。Sさんと話しているうちになんだかぼくが失くしてしまったものを、Sさんがとても強くもっていると感じました。それは「自分から行動すること。」
高校時代のぼくは新しいことに挑戦すること、見知らぬ人と話すことに恐れを感じることがなく、多くの人と積極的に行動していました。時間を、一期一会を大事にできる人間だったと思います。(自分でいうのもなんですが。)

しかし、大学に入ってからそういう機会が少なくなり、自分がそういう人間でなくなっていくのがわかりました。高校時代は周りがぼくに行動するチャンスを与えてくれて、それに乗っかってぼくは多くの経験をしていました。大学はそうもいきません。自分で行動しなければ、時間がただ過ぎさって、その後に取り残されるだけです。

さらにぼくは大学生になって、外の世界に出るのを恐れるようになったと思います。なぜかはわかりません。
自分が大きく変わってしまう気がしたのかな。そして変わることが恐いと感じたのかな。

ですが、飛べない鳥は悲しい。せっかく多くの人がぼくの成長を見てくれているのに、多くの人がぼくと関わってくれるのに、ぼくが成長しなかったらそれは残念だなって感じるようになりました。ぼくが多くの経験をして、成長して、彼らのために、他者のために、世界のために何かをすることが、ぼくにできることだと思います。

大学生活は半分も残っていません。しかし、ぼくはこれから行動します。経験します。それはどんなものか、まだわからないですが、ただ言えることがあります。それはぼくは外の世界に飛び立たなくてはいけない。ひとまわりも、ふたまわりも成長しなくてはいけない、ということ。そして多くの人、ものに感謝するということ。

話が逸れましたが、Sさんのおかげでぼくはこのようなことを考えることができました。Sさん自身と、Sさんに再会できたことに感謝。

このブログを読んでくれる方々も周りの人たちを大事にしてくださいね。

そしてブログを読んでくれたあなたにも、ぼくから感謝。

God bless all of you!

では、また書きます。

2010年9月5日日曜日

日本人の処世術

処世術というものが日本では根付いている気がします。
例えば、「世渡り上手」というのは処世術を身につけた人のことや、そのような能力を指すと思います。
ぼくも一時期信じていました。親にも「要領よく」ということはよく言われて育ってきたので。
しかし、日本の処世術はしばしば方向性を間違える。その例を考えたいと思います。

まず、「ポジティブ思考でいこうよ」という考え方。「失敗を気にせず前を見てポジティブにいこうよ」という発想は欧米から来たもので、日本でも浸透していると思います。しかし、「ポジティブ思考」の本質は「失敗を踏まえて、次に生かす。だから挑戦することに臆するな」ということであって、決して失敗を忘れてとにかく元気出していこうよという考え方ではないということ。失敗をしたのに、それを踏まえなかったら、また同じ失敗をすると思うのです。「ポジティブ」ってそういうことではないと思うんですよね。

もうひとつ。「他人の長所だけを見て生きていこうよ。」という考え方。これもなんだか間違った考え方のような気がします。他人の長所を見出すというのは、人間関係において必要なことでしょう。でも長所だけ見て生きるのって本当の人間関係ですかね?ぼくは相手の短所や他人だったら嫌ってしまうような欠点をも受け入れることができる人こそ、本当に大きな器の持ち主だと思います。長所だけ見るのって、過ぎたるは及ばざるが如し、つまり短所だけを見て人格・人間性を判断する人らとなんら変わりないということですね。

ぼくも人間としてまだまだなので、あまりこういうことを書いても説得力はないのですが、書くことで自分に戒める意味もあります。



読んでいただいてありがとうございます。

2010年8月23日月曜日

銀河鉄道999

少し前に999をBSで放送していました。
そこで見ていて思ったのが、日本のアニメは質がいい。

大人になればなるほどおもしろくなる。
ぼくが見たエピソードからおもしろかったものを紹介します。

鉄郎がある星でラーメンを食べた。するとそのラーメン屋で昔働いていた女性がやってきて店主に残飯を分けてほしいと言った。店主はしぶしぶ残飯を与えることにした。女性はゴミ箱をあさったが、ほとんど食べ物はなかった。鉄郎は気の毒に思い、彼女にラーメンをごちそうする。そこへある男がやってきてラーメンを注文した。彼は店主にあそこの男の子が金を払うと言った。その男は鉄郎が女性にごちそうしたのを知っていて、「俺にはラーメンを食べさせてくれないのか。不平等だ。」とどなる。仕方なく男にごちそうすることを決めた。すると男は外にいた大勢の人を連れてきて、「こいつが食わせてくれるってさ。」と言った。だが、当然お金は足りない。店主が食べられなかった人々に、「文句はあの子に言いな。」と鉄郎に指差す。飢えた人々は鉄郎を追いかけてくる。

というエピソード。優しさや寛大な心にはしばしば大きな責任が伴うということだと感じました。

もうひとつ。

ある星で鉄郎が999へのパスを盗まれた。そして999へ戻ると車掌が「申し訳ないが君は乗せられない。」という。「なぜ?」と問うと、「パスを持っていないものは乗せられない規則だから。」と車掌がいう。鉄郎が「もしぼくのパスをもったやつが現れたら、取り返してくれ。」と車掌に頼む。車掌は「それはできません。」と答えた。鉄郎は当然納得がいかない。そこにメーテルが、「どんな者であろうと、どんな方法でパスを手に入れたとしても、パスの持ち主が999に乗る権利を持つのよ。」という。

日常ではしばしば不条理なこと、理不尽だと思われることがある。君たちもそういう経験をすることがあるだろうということを覚えておきなさい。そんなメッセージが込められているかのようなエピソードでした。

子どもだと、ただストーリーの流れをつかんで追っていくことしかできないかもしれないが、少し成長してから改めて見てみると違ったものが見えるのではないかと思ったのでした。

2010年7月17日土曜日

教師像

教育の授業で耳にした教師像とは何か。

それはどのようなものか。
「教師は役者であれ」というもの。そして生徒の成長のためには進んで嫌われなさい、というもの。

基本的には賛成できない。
確かに生徒のやる気を喚起するため、発達を促すという意味では時には「役者」になるべきかもしれない。
時には嫌われるのを恐れず、指導するべきかもしれない。

だがいつでも役者として、生徒と接していては生徒も教師を人として見てくれることはないのではないだろうか。教師はありのままで接してよいと思う。生徒としかと向き合うには、それが大切だと感じる。

もうひとつ。生徒に嫌われてもよい。これは絶対にだめだろう。生徒の発達のためにきちんと指導はするが、好かれなければ生徒は、教師の言葉に耳を傾けない。授業も聞いてくれない。いくら立派な先生でも、嫌いな先生の話というのは、生徒はあまり聞きたがらないものだ。人は信頼関係がなければついてこない。生徒をある方向に導きたいと思うなら、好かれて信頼関係がなければ。

それを念頭に置いて、教育の場に臨まなければならない。