さてわたしは労働に関して思うことがあります。「できるだけ少ない時間で、楽にしたい」ということです。労働なんて自分の時間を奪うものであって、よいものではないですよね。特に父の農作業を手伝っているときに、こう思うわけです。
父の仕事を手伝うと、たいてい丸一日つぶれます。朝8時くらいから夕方4~6時くらいまで手伝わされます。昼食時間も1時間はありません。たいてい30~40分したら、また仕事再開なんです。仕事が終わっても、夜は疲れています。とてもでないけれどタスクはできない。本を読むのでさえ、しんどいですから。
そこでわたしは父と仕事をするときは、いつも「早く終わらないかな」とか「もう今日はこれだけで十分じゃん」とか思うわけです。すると父は「今日はあの畑までは終わらせる」とか「まだまだやる」という風に返してくるわけです。一日でできるだけたくさんの仕事を終わらせたいんでしょうね。今日も台風が来ている鹿児島の父に電話をすると、台風が来る中、仕事をしていました(といっても、ビニルハウスの中での仕事です)。わたしが「台風来てる間くらいやめればいいのに」というと、「台風が来たくらいで、仕事を休めるか」というのです。
もう一つ例を出しましょう。高校時代にお世話になった英語の先生の話です(今もお世話になっています)。他教科の先生が出張等で授業が自習になると、その先生はその時間をもらって英語の授業をする先生でした。わたしが先生ならわざわざ自分の授業を増やすようなことはしません。「労働は少ない時間で、楽にしたいから」です。自分の貴重な時間だとか休める時間を割きたくはないのです。
しかし父と先生は自分の時間を割いて労働をします。そこで疑問に思ったわけです。労働に対する考えだとか、労働を進んでするという気構えはどこから湧くのか。
それはお金であったり、義務感ということがあるかもしれません。少なくともわたしの父に関してはそうだと思います。家族や子どもを大学に行かせるには、懸命に働かなくてはなりません。
先生に関しては、教えたいことがたくさんあったりだとか、先生の持つ信念なるものがそうさせるのだと思います。「まあ仕事だから仕方ない」という考えがあったとしたら、自分から授業を増やすなんてことはしないでしょうから。
わたしなりに考えてみました。労働をやりとおせるのは、「その仕事が社会、または誰かから必要とされているから」ではないか。まあこれは言い方を変えれば結局は義務感であったりもするわけなんですが。社会がうまく機能して、わたしたちの生活の豊かさが保たれる、または向上するためには、何者かが何か仕事をしなくてはいけません。
わたしは父を見ていて、ときどき「よく農作業なんて大変な仕事できるよな」と思うことがあります。必要な仕事だから、父はそれをできるのだと思います。人は食べなくては生きてはいけない。社会がうまく機能するためには、食べ物を作る農家という仕事が、そしてそれを担当する人が必要なのです。
教師という仕事もそうです。「国を託すことのできる、新しい世代を育てる」ということが社会を動かすには不可欠です。なので先生も教えるという仕事をやりとおせる。その仕事が必要とされているから。
そういうものかなと思います。
もちろんこれを意識している人はあまりいないと思います。少なくとも、わたしの父がそんなことを考えて仕事をしているとも思えません。しかし、それは表にでてこないだけで、知らないところでは人を労働へと突き動かす原動力になっているかもしれません。
社会にはたくさんの労働があります。明日から見かける労働している人々を、このような視点で見てみると「労働って何だろう」とか「あの人は何を持って労働しているのだろう」とか考えられて、おもしろいかなと思います。
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