2011年1月27日木曜日

教員になるためのプロセス:センター試験との関連から

今日の英語教育史の授業でセンター試験の話がふと出ました。センター試験による序列化はよくないという話でした、確か。ぼく自身はAO入試で入ったのであまりセンター試験のことを意識したことはなかったですが、この序列化の話で引き合いに出された例がおもしろかったので、それについて少し意見を書きます。

ある高校生が社会の教員になりたいそうです。その生徒はある大学の社会科教員養成コースに入ろうと決めていました。しかしセンター試験の成績があまり芳しくなく、大学の試験との合計がとても足りそうにないそうです。そこで同じ大学の教育学系コースに入ろうと考えている、という例でした。センター試験の序列化によって、このようなことが起きている。社会の教員になりたいのに、教育学系コースに入るのはおかしいでしょというのが、教授の意見でした。

しかしぼくはそうは思いません。教育学系コースでも社会科教員免許は取得できます。もちろん社会科コース同様の過程を経てです(教育実習も同じように履修します。ただ少し社会科コースよりは少ない単位でということになりますが)。さらに教育学系コースならば、教育行政や学校運営の基礎を学ぶことができます。そのような過程を経て教師になった人ならば、通常の社会科教員では教えられないことも教えることができるはずです。何も授業の方法論だけが、その教員の力量ではないわけです。教師の中に従来とは異なるプロセスを辿ってきた方がいても、平等な評価を受ける権利があると思います。

ということを授業中に考えていました。

※ぼくのセンター試験に関する知識不足・現場の状況も把握していない一学部生の意見なので、間違いやほかに意見等あれば、お知らせください。

2011年1月14日金曜日

日本人の無宗教

冬休み中にブログに書きたいことをメモしてためていました。
書きたい・おもしろいと思ったことがあったらメモしておいて、できるだけ早く文章化する、これが冬休みに感じたことです。

ということで、日本人の無宗教について書きます。内容は本当に浅いですが、これをきっかけに考えていって、自分なりに考えが深まったら、また追記していくという形にする。そういうやり方でいいのだと思うのです。要は考えるか・考えないのかですから。では書いていきます。

授業で宗教の話しが出ました。コミュニケーションの授業だったのですが、先生が話を広げるのが上手かつおもしろいので、すっかり夢中になってしまいました。西洋の宗教は従来一神教なので、人間の単数性という考え方しかなかったのではないかということでした。これがコミュニケーションに結びついていくのですが、ここでは避けましょう。

これを聴いたとき、とても不思議な気持ちでした。ぼくは人間の複数性について記事を読んだときに「なるほど」と納得したのですが、人間の単数性の話が出てきたときに、「そういう考えもあるよね」と自然と思えました。これはぼくの無宗教の特性がよく表れているのではないかと思いました。
日本人の無宗教は、宗教の知識・背景を知らない。ひどい場合になると興味がない、末期になると煙たがるというものですが、無宗教ゆえの寛容性も同時に秘めているような気がしました。

自分の宗教を信じるのは自由、どの宗教も悪いとは思いません。ただし人を不幸にするようなものをぼくは宗教だとは思いませんし、そんなものは認めません。同じ人間なのに、宗教のために命を捨てる、または奪うのはおかしなことだと思いませんか(これも無宗教の考え方でしょうか。)どの宗教もおそらくは人の心の支えとなる、生き方の指針となるもののはずですが、人を不幸にすることもあるというのは奇妙なことです。

日本人の無宗教は悪という考え方が多い気がします。なぜでしょうか。それはあまりにも宗教に無関心ということだと思います。寛容以前の問題です。なのでこれからぼくは、宗教のことを何も知らない・興味もないというのを無宗教と呼んで、宗教の知識もあるしそれを毛嫌いもしないけど何も信仰するものがないというのを非宗教と呼ぶことにしました。非宗教だからこそ、見えるものがあるとそう思うのです。

これは決して信仰をもつ日本人を誹謗・中傷するものではありません。信仰するものがあるなら、それは自由です。

非宗教の人も少しは胸を張って生きていけると思います。

110113 review ルーマン

今回の授業ではルーマンのコミュニケーション観についての学習でした。彼の論では、主に二つの幹がありました。自己準拠と二重の偶発性です。

自己準拠は人間は自らの知識・考えの範囲でしか情報を受け取ることができない。つまり話者が何かを発したときに、それをそっくりそのまま受け手が理解するということはあり得ないというのが自己準拠です。これはコードモデルを真っ向から打ち崩すものです。話者のAという発言を聴き手がAもしくはA’という形で受け取る、これこそがコミュニケーションであるという考えはルーマンによって覆されたわけです。
これは普段何気なくコミュニケーションを取っているわたしたちからすれば、特に高等教育を受けているものからすれば当たり前のことのように思えますが、コミュニケーションの捉え方の一つであったコードモデルに異議を唱え、新たな論を展開することはとても難しいことだったでしょう。

さて、次に二重の偶発性です。二人の人がいるとします。うち一人はもう一人に話しかけたい、しかしどんな反応をされるか不安である。一方もう一人はというと、こちらも同様の不安を抱いている。そしてどちらもそのことをお互いにわかっているとしたら、お互いは相手の偶発性に依存していることになるというのが、二重の偶発性です。正直いうと、ぼく自身この二重の偶発性は理解していません。そのような二重の偶発性の例は理解できても、そのものの本質を理解しているわけではないです。

今までたくさんの先人たちのコミュニケーションの捉え方を見てきましたが、本当にみな独自の捉え方をしています。まったく同じ考えという人はいませんでした。またどの先人たちの考えにも賛同できる部分とそうでない部分がありました。コミュニケーションの概念は常に流れているといるのだと思います。そうするとコミュニケーションとは何かということは定義できない、ということになります。
では研究をやめてもいいのか、そうではありません。過去の研究があって、現在の研究があるように、現在の研究も未来の研究者たちにつながっているといえます。そしてそのような研究がそれぞれの時代の教育に影響されるわけですから、常にコミュニケーションとは何かということを問い続けていかなければなりません。

2011年1月6日木曜日

袖触れ合うも多生の縁

新しい年ですね。思えば昨年もあまりブログ書きませんでしたね。これからはしっかり書きたいですね、普段感じたこと・学習したことを残すという意味でも。
短いものであっても、残すのと残さないのは大きな違いですね。
というわけで、新年一つめのブログです。

今日は鹿児島から広島に行く日。いつものように高速バスで移動でした。すると隣は女性。普通なら女性と隣り合うことはないのですが。その女性がまたとてもかわいい人でした。Twitterでそのことをつぶやくと、「話しかけたら?」というコメント。背中を押され俄然その気に。しかしやっせんぼなぼくは、なかなか話しかけることができず、サービスエリアまで何も起こりませんでした。しかしサービスエリアでガムを渡すと、少し勇気が出てきました。そこから話しが少し弾みました。出身地、何をしているかなどを話しましたが、とても楽しい時間でした。その方も学生だとわかり、話しやすかったです。ほんの少ししか話せませんでしたが、今はとても満たされた気分です。

日常過ごしていて時々感じるのが、一般に日本人は隣にいる見知らぬ人とは話さないということです。以前本で読んだことがありますが、日本に住んだことのあるイギリス人が日本の電車に乗って、隣に座った日本人に話しかけたところ、変な目をされたという経験談でした。だから日本の電車はおもしろくないと彼は言ってました。

思うに隣に見知らぬ人が座ったときに、その人と話ができるというのもコミュニケーション能力の一つかもしれないですね。相手との距離を縮めながら、自己開示をする、相手に合わせる、相手のことを知っていくというのはコミュニケーションでしょう。機会があれば積極的に見知らぬ人と会話をしていきたいですね。それってとてもすばらしいことだと思いますから。とてもわくわくしますしね。加えて、英語教育でコミュニケーションを扱う人間として、それを探求していく姿勢、そのためにもコミュニケーションをたとえ見知らぬ人とでも図ろうとすることはとても重要です。

それにしてもかわいい人で、学生とは思えない程大人っぽい人でした。

2010年12月20日月曜日

12/16 review 言語コミュニケーション能力の三次元的理解

広島大学教育学部の柳瀬准教授(以下柳瀬先生とします)は言語コミュニケーション能力を三つの側面、読心力・身体力・言語力にわけました。現在の英語教育の世界でも、さらには指導要領の中でも盛んに言われている「言語コミュニケーション」ですが、その解釈は指導者によってばらばら、もしくはそれが何なのかということをまったく考えられない間に、その言葉だけが独り歩きしているように思われます。教員によってその解釈は多少異なるでしょう。その違いというものが授業にその教師らしさというものを生むでしょうから、容認されてもいいはずです。しかしその解釈があまりにもかけ離れてしまって、違うベクトル上を走ってしまうということになると話は変わってきます。

そこで柳瀬先生はこれまでのCanale and Swain, Bachman, Bachman and Palmerなどの先人たちの提唱してきた考え方から、三次元的理解を試みようとしたわけです。これはすばらしい試みだと感じます。一見、コミュニカティブな英語力を身につけるということから離れてしまうように見えますが、とても大事なことです。なぜ大事か、ぼくなりの考察と学んだことのまとめをしたいと思います。

まず、三次元的理解の重要性です。これはぼくがラジオで聴いたお坊さんの言ったことを引用します。「1と1×1の答えはどうなるか。数学では二つは=で結ばれるでしょう。しかしわたしはそうは捉えません。二つには決定的な違いがある。それは後者は二つの側面から物事を捉え、見ることができるということだ。一つの物事を捉える際にも、一元的にしか見られない人と、二次元的に物事を見られる人は違う。似て非なるものだ。」言語コミュニケーションというものを考える際に、「英語で日常会話ができる」という風に、言語コミュニケーションを一元的にしか捉えられないということは、言語コミュニケーション能力がもつ多様性や可能性を失わせることになると思います。これをより広い意味で、多くの教育現場で基盤とするには、幅広い捉え方が必要です。そこで三次元的理解が必要になります。

読心力は、何か障害がない限りで人間が極めて当たり前に持っている能力です。自分を相手の立場に置き換えて、さらに相手に伝わるように言語を発するということ、並べるということ。ただ言語力があるということだけではコミュニケーションは成立しません。どれだけ言語力に長けていても、うまく人に言いたいことを伝えられない人がいます。それは相手の立場を想定していない、あるいはおよそ聴き手が関連性を感じることのできない事柄を話しているということでしょう。これは母語だけでなく、第二外国語、第三外国語でも同じですから、「言語コミュニケーション」を考える礎石として大事なものです。

身体力は言語的身体力と非言語的身体力にわけられます。どちらもコミュニケーションの一部として捉えることが大切です。言語的身体力というのは、わたしたちの口・耳・眼・手といった器官のことです。これらの器官が正常に機能することで、わたしたちは言語を発することができます。非言語的身体力というのは、言語の構成。取り込みを行なうこれらの器官だけでなく、身ぶり手ぶりやアイコンタクトなども、「言語」そのものではないが、言語コミュニケーションを促進するものとして扱われます。またこれらは言語でこそないですが、単独でもコミュニケーションを図ることが可能です。非言語的身体力に関しては、教師と生徒間でもとても重要なものです。生徒の無言のシグナルを受けるには、教師自身がこの能力を獲得していないといけません。

最後に言語力です。これを言語慣用と言語能力の二つで捉えています。前者が慣用表現や決まり文句のことで、後者は自由に文章を産出する能力です。前者はインプットとして、ぼく自身も高校時代に多く経験しました。いきなり莫大な言語という倉庫から自由に言葉を選択して使用する、というのは極めて困難で、始めは誰もが前者の能力を身につけるということが必要だと思います。慣用の練習とともに、人は文法を身につけるものだと思います。しかしそればかりでは言語の自由性は生まれません。複雑な表象を言語によって生み出し伝えるには、言語の持つ創造性。自由性なくしては不可能です。ある人がその人の考えを創造性・自由性に溢れた言葉に託してそれを書く・発する、そしてそれを聴き、読むことでまた別の人がその人の言語の創造性・自由性を高めていくのだと思います。

これら三つの能力が複合して「言語コミュニケーション能力」が成り立つのだと思います。

人の模倣をするということ

授業の一環で田尻先生の英語教育の授業を映像で見た。
といってもぼくは授業を欠席していたので見ていません。このビデオを見た次の週に復習として、先生が授業の始めで扱いました。その復習の中で、我々が田尻先生の実践を真似してもうまくいかないだろうということをおっしゃっていました。ぼくもその通りだと思います。

人の真似をするということについて、Queen のBrian Mayが次のように述べたことがあります。「ギターのテクニックにしろ、何にしろそれらを取りいれることはいいことだと思うよ。ただしそこに自分の工夫や自分らしさがあればね。いろんな人が工夫を加えていくことで、よりよいものになるだろうから。」「自分のリックを作ることを忘れちゃだめだよ。もちろん自分で使えるものを学ぶために他人のをやるのはいい。何もないところから何かを生み出せる人はいないしね。他人のプレイをよく聴いて、自分でもやってみることだ。」彼は学生バンドの頃、Jimi Hendrixなどのギタリストのコピーをしていたらしいですが、その中にも自分らしさを探し出すようにした、と言いました。そういう工夫を重ねてきたからこそ、彼の才能とそれとが相まってすばらしい曲・音を生んだのだと思います。

英語教育も同じだと思います。よいと思った教材・教授法をどんどん取り入れる。ただしその中に自分なりに意味が見いだされていること、自分らしい工夫がなされていることが条件です。そうして教材・教授法がよりよいものになっていくのだと思います。

英語教育界でも、指導者がもっともっとお互いのよいところを取り入れて、発展していくといいと思います。

2010年11月13日土曜日

田舎コミュニティの良さ

実家に帰って感じたこと・学んだことシリーズの第2弾目です。
田舎コミュニティについて。

ある日母にインフルエンザの予防接種に行けと言われました。去年は予防接種したにも関わらず、新型インフルエンザにかかりました(新型はワクチンができていませんでしたけど。)今年からは従来のA香港型とBソ連型に加え、去年流行した型のワクチンも含んでいるそうな。

そこで本当に田舎の小さなクリニックに行きました。アポなしで行ったのですが、快く予防接種してくれるとのこと(さすがは田舎のクリニック!)そこの院長の先生と話す機会がありました。

「大学生?」「はい」
「どこの大学?」「広島の大学です」
「そう。何学部?」「教育です」

会話は続きます。
「去年インフルエンザかかった?」「はい、新型に」
「新型か。始めはきついかったかもしれないけれど、少し休んだら治ったろ?」「はい、二日くらいで」
「新型でどれくらいの人が亡くなったと思う?」「検討がつきませんね」
「本当?実は500人もいないんだよ。亡くなった人は元々重い疾患を持った人たちが多かった」「そうなんですか」
「じゃ、従来の型ではどのくらいの人が亡くなったと思う?」「やっぱり500人くらいですか?」
「いや、一万人以上だよ」「本当ですか?」
「ああ、本当だよ。メディアはまるでデマゴーグ(こういう用語を使うのはさすが知識人といったところ)のように煽りたてたろ。だが従来の型の怖さやその深刻さは伝えなかった。子どもたちを教えるなら、本当のことを、本当に大事なことを教えてね」「はい」

という会話の間にワクチン接種は終わってました。大学に入ってからあまり経験することのなかった新鮮な気持ちでした。田舎ならではの、人の多くない場所だからこその素晴らしい経験だったかもしれません。実家はとても田舎な場所ですが、そんな実家が大好きです。帰るたびに何か発見をくれるから。

皆さんもたまには実家に帰ってみるといいかもしれませんね。

ではまた書きます。