2011年5月29日日曜日

人が労働する理由

今回のテーマは「労働をどう捉えるか」ということです。タイトルは仰々しいですが、中身は薄いものです。気軽に読んでいただけたら、と思います。

さてわたしは労働に関して思うことがあります。「できるだけ少ない時間で、楽にしたい」ということです。労働なんて自分の時間を奪うものであって、よいものではないですよね。特に父の農作業を手伝っているときに、こう思うわけです。

父の仕事を手伝うと、たいてい丸一日つぶれます。朝8時くらいから夕方4~6時くらいまで手伝わされます。昼食時間も1時間はありません。たいてい30~40分したら、また仕事再開なんです。仕事が終わっても、夜は疲れています。とてもでないけれどタスクはできない。本を読むのでさえ、しんどいですから。
そこでわたしは父と仕事をするときは、いつも「早く終わらないかな」とか「もう今日はこれだけで十分じゃん」とか思うわけです。すると父は「今日はあの畑までは終わらせる」とか「まだまだやる」という風に返してくるわけです。一日でできるだけたくさんの仕事を終わらせたいんでしょうね。今日も台風が来ている鹿児島の父に電話をすると、台風が来る中、仕事をしていました(といっても、ビニルハウスの中での仕事です)。わたしが「台風来てる間くらいやめればいいのに」というと、「台風が来たくらいで、仕事を休めるか」というのです。

もう一つ例を出しましょう。高校時代にお世話になった英語の先生の話です(今もお世話になっています)。他教科の先生が出張等で授業が自習になると、その先生はその時間をもらって英語の授業をする先生でした。わたしが先生ならわざわざ自分の授業を増やすようなことはしません。「労働は少ない時間で、楽にしたいから」です。自分の貴重な時間だとか休める時間を割きたくはないのです。

しかし父と先生は自分の時間を割いて労働をします。そこで疑問に思ったわけです。労働に対する考えだとか、労働を進んでするという気構えはどこから湧くのか。
それはお金であったり、義務感ということがあるかもしれません。少なくともわたしの父に関してはそうだと思います。家族や子どもを大学に行かせるには、懸命に働かなくてはなりません。
先生に関しては、教えたいことがたくさんあったりだとか、先生の持つ信念なるものがそうさせるのだと思います。「まあ仕事だから仕方ない」という考えがあったとしたら、自分から授業を増やすなんてことはしないでしょうから。

わたしなりに考えてみました。労働をやりとおせるのは、「その仕事が社会、または誰かから必要とされているから」ではないか。まあこれは言い方を変えれば結局は義務感であったりもするわけなんですが。社会がうまく機能して、わたしたちの生活の豊かさが保たれる、または向上するためには、何者かが何か仕事をしなくてはいけません。
わたしは父を見ていて、ときどき「よく農作業なんて大変な仕事できるよな」と思うことがあります。必要な仕事だから、父はそれをできるのだと思います。人は食べなくては生きてはいけない。社会がうまく機能するためには、食べ物を作る農家という仕事が、そしてそれを担当する人が必要なのです。
教師という仕事もそうです。「国を託すことのできる、新しい世代を育てる」ということが社会を動かすには不可欠です。なので先生も教えるという仕事をやりとおせる。その仕事が必要とされているから。

そういうものかなと思います。
もちろんこれを意識している人はあまりいないと思います。少なくとも、わたしの父がそんなことを考えて仕事をしているとも思えません。しかし、それは表にでてこないだけで、知らないところでは人を労働へと突き動かす原動力になっているかもしれません。
社会にはたくさんの労働があります。明日から見かける労働している人々を、このような視点で見てみると「労働って何だろう」とか「あの人は何を持って労働しているのだろう」とか考えられて、おもしろいかなと思います。

2011年5月24日火曜日

『英語教育のポリティクス』 第2章 英語教育の<いま>を問いなおす

『英語教育のポリティクス』
江利川春雄 三友者出版 (2009)

第2章 英語教育の<いま>を問いなおす
英語教育はよくも悪くも話題になっている分野です。教育の中でもこれほど話題になる教科は英語くらいではないでしょうか。第2章は現在日本が抱えている英語教育の問題点を扱っています。その中からわたしが興味深いと感じたものをまとめます。


1. 2週間に1つの言語が消滅
世界にはいったいいくつの言語があるのでしょうか。8000を越えると唱える人もいれば、4200~5600とする人もいます。いずれにせよ大きな数字です。それだけ言語があれば、なくなってしまう言語があっても不思議ではないです。それだけ数ある言語の中から、外国語学習を「英語を学ぶこと」へと一律化してしまうことは、経済界のグローバリズムの思うような動きだと述べています(p.46)。

わたしたちが英語を学習することだけを徳だとするならば、それは言語消滅に拍車をかけることにほかならないのです。そこでわたしたちは英語を学ぶもしくは教えることで、なくなりつつある言語の存在を思い出さなければならないのです。なくなりつつある言語を題材にした教材を扱うことを、筆者は勧めています(p.46)。

2. 英語科教育と歴史認識
教科教育と歴史の学習というと、社会科をまず思い浮かべるでしょう。「世界史」「日本史」という科目があるくらいなので当然です。英語科はまったく歴史認識と関係がないように思えますが、実はそうではありません。英語科は戦争の歴史を背負っているのです。英語教科書において戦争教材が導入されるのは日清戦争の時期にさかのぼりますが、その色がより濃くなるのは1937年の日中全面戦争からです(p.50)。その当時の教材はというと、兵士・軍事訓練・「大東亜共栄圏」などでした。そして戦後、その教科書は黒塗りにされて、人々はその歴史に目を向けまいとしたのです。

わたしは戦争の歴史を教えることは、とても大切だと思っています。黒塗りになんかせず、日本がどのような英語教育をしてきたか、それを受け止めて、その歴史の上に立つのです。その自己反省の態度をわたしたち自身が示さずいて、どうやって生徒たちに自己反省を説くことができるでしょうか。自身の過ちを認めて改善しようとする人間についていく者、そのような人から教わる生徒は自ずとそのような態度が身につくものだと思っています。

3. 恥ずべき教育予算
教育にはお金のかかるものです。文科省は概算要求の段階で、「小学校英語条件整備推進プラン」として37億5千万を計上していたにもかかわらず、政府の予算案では6億2千万にまで削られました。(p.67)これを一校ずつの額で見ると、年間わずか2万6千円です。これだけしか支給しないでおいて結果を求めてくるのですから、教育を何だと思っているのでしょうか。これでは教員の数も増やせない、教員の質も上げられない。そうなると生徒たちに高い水準の英語教育なんて施せません。

ディートリッヒ・ボンヘッファーの言葉に次のようなものがあります。「子どもたちに何をするかで、その社会のモラルを計ることができる。」子どもたちの教育にかけるお金を削ることは、モラルの高い社会のすることなのでしょうか。

日本の将来のためにも教育には予算をかけてほしいです。小学校の英語教育は行なうなら、もっと予算が必要でしょう。予算をかけない中途半端なものであれば、やめた方がよいと思います。

2011年5月21日土曜日

新約聖書・レビを弟子にする

親共同訳・新約聖書・マルコによる福音書第2章17節より引用。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためである。」

この言葉の背景を知るためにもう少し引用しましょうか。
親共同訳・新約聖書・マルコによる福音書第2章15節から17節まで。

イエスがレビの家で食事の席についておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。ファリサイ派の律法学者は、イエスや罪人や徴税人と一緒に食事されるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためである。」

この話は、靜哲人先生のブログ: What we teachers are for という投稿を読んで思い出しました。靜先生のおっしゃる通り、教師を必要としているのは、わかる生徒ではなくわからない生徒でしょう。わからない生徒が納得するまで教えるというのが理想です。もちろんそれと同時に、わかる生徒のもつ可能性を伸ばすのも教師の役目だと思っています。

靜先生のブログはこちら Kyle’s Kungdom: What We Teachers Are For


実はわたしは靜先生に教わったことがあります。高校のときの先生が靜先生と交流があり、お願いして実現したものでした。あのときわたしが感じたことは、本当に「発音を徹底的に」の方だったということです。洋楽を使った発音練習の授業。曲はMariah CareyのAll I Want For Christmas Is Youだったのを覚えています。教室全体で円を作って、ぐるぐる回りながら一人ずつ先生のところで一行歌詞を読む。発音をできたと判断されたら、次の行に進めます。ダメならもう一度同じ行を練習。次の自分の番が来るまで練習です。なかなか先に進めなかったのを記憶しています。そうですね、あとは先生が真っ赤なシャツを着て、学校にいらっしゃったのも覚えています。もう何年も前のことです。靜先生から一度とはいえ、教わる機会があったのは幸運でした。鹿児島のあんな辺境地に来てくださったのですから。靜先生がこのブログをご覧になるとは思いませんが、ありがとうございましたとお礼を言いたいです。

2011年5月20日金曜日

110518 地球的言語としての英語 復習

この授業では毎週二分間程の短いスピーチを日本語で行なう練習をしています。グループをいくつか作って、その中でスピーチを発表するという活動があるのですが、人数の都合上グループに入れず、先生とマンツーマンになりました。今回のスピーチは、わたしのスピーチにしては評価がよかったので、ここにその原稿をあげたいと思います。


英語教員の点数管理について

わたしは英語教員の点数管理について話をしたいと思います。今日英検やTOEICなどの英語のテストが多くあります。英語教員もそれぞれのテストにおいて取るように推奨されている点数や級があります。これらテストで測られている能力は異なるのに、このようなテストで英語教師を一括管理してもよろしいのでしょうか。

わたしの意見は、「管理してもよい」です。その理由を今から二点述べます。

一つめの理由は、「英語力という概念に尺度を与えるテストである」ということです。
近年英語力という言葉が多用されていますが、その概念は人によって違うものであると思います。これらのテストはその英語力と言う言葉を数値化して、目に見える形にしてくれるのです。それは英語力の尺度となりえます。

二つめの理由は「テストどうしの補完」です。
それぞれのテストには測っている能力があります。それらには同時に測ることのできない能力もあるはずです。例えば、しばしばTOEICはwritingとspeakingの能力が測られていないということが指摘されます。しかしあるテストが測っていない能力は、他のテストが測ってくれるということもあります。これらテストを個別に見ると、教師の英語力を測ることができていないようですが、テストを包括的に見るならば、それはある程度信頼性のあるものとなります。

忘れてはならないのは、これらテストでは授業のうまさ・指導の技量は測れないということです。テストによって英語教員のすべてを評価することはできません。英語教員としての力を総合的に測ることはできないのです。

その点を考慮しながら、教員にテストを受けることを推奨することは構わないと思います。

以上。


文字化するとそんなに優れた内容でもないですね。口頭ではうまくいったつもりでも、文字化すると違っていたりします。文字化に限らず、考えたこと・頭でわかったことを言語化する癖はつけたいものです。それは言語を学ぶ者として、言語を教えていくであろう者として、必要な過程なのだと思っています。

2011年5月10日火曜日

発音ガイドのサイト: Forvo

今回は大学のネイティブスピーカーの先生に教えてもらったサイトを紹介します。
発音ガイドForvo http://ja.forvo.com/です。

このサイトでは単語の発音の仕方を様々なスピーカーの実際の音声で流してくれます。英語の発音の多様性を知ることもできますし、自分で発音練習するときにも役に立つサイトだと思います。

よいと感じたら、お気に入りに加えてもいいと思います。

2011年5月3日火曜日

K高校の生徒たちとの交流; 質問への回答

今回のゴールデンウィークを利用して帰省することにしました。いつもなら高速バスでのんびり帰るのですが、新幹線も開通しましたし、高校のときにお世話になった先生に久しぶりに会おうと思い、鹿児島市内に帰りました。

先生のお宅に泊めさせていただいて、翌日帰ろうとしていたところ、現在先生が勤務している学校の生徒に話をする機会をいただきました。はじめどうしようか迷いましたが、せっかくだったので、話をさせていただくことに。

先生の車で移動して、学校に到着。先生の後ろについていき、教室に行くと生徒さんたちがいました。その後生徒さんたちが全員集まり、いよいよ話をすることに。とはいっても何も準備していませんでした。先生や生徒さんたちがわたしに質問をする形で、大学生活や高校時代の過ごし方などについて話をすることになりました。

そこで、今回は生徒さんたちから受けた質問と、わたしなりの答えをもう一度ここにまとめておこうかなと思います。わたしの答えを生徒さんたちがメモを取ってくれている姿も見られましたし、わたしが彼女たちのために何かできることといえば、情報提供や、質問されたことをわたしなりにまとめて伝え直すことくらいです。

1. 英単語を覚えるにはどうしたらよいか
最初の質問は「英単語を覚えるのが苦手なのですが、どうしたら覚えられますか」というものでした。わたしも苦手です、未だに。わたしが考えるのは、単語帳とにらめっこするよりは、単語が実際に文の中で使われている例に触れて、その文を音読して文ごと覚えてしまうのがいいかと思います。文で覚えた方が使用例も覚えられて役に立ちそうです。また単語を入れ替えたりして、応用も利きそうです。また文を音読して覚えるというのが重要でしょう。耳と口、視覚を使用して覚えることで、長期的な記憶になりやすいのではないでしょうか。

2. コミュニケーションできる授業は大学では開設されているか
何を「コミュニケーション」とするかによりますが、英語で話をする機会のある授業はあります。大学では様々な授業が開講されているので、調べてみるといいかもしれません。他学部の授業なども探してみると、おもしろいかもしれません。コミュニケーションをする授業を取ろうと思うなら、知識を広げておくといいと思います。英語でぺらぺらと話をしているのをみると、自分もそうなりたいと思うものです。しかし中身のない会話しかできないというのは、コミュニケーションをしていても話が深くなりません。コミュニケーションできる授業はあると思います。英語で話すのは楽しいものです。それと同時にコミュニケーションする内容が深くなるように勉強したり、本を読んだりもしましょう。

3. 県外大学に進学することのメリットは何か
メリットと呼べるようなものはないかもしれませんが、変化というものは大きいです。まず第二の故郷ができることでしょう。新しい土地の食事や文化というものは、少なからず自己を拡張できるでしょう。わたしの場合は広島の大学に進学しましたが、プロ野球の試合に興味を持つようになり、カープの応援をしています。
二つ目に「郷土愛」が湧くことです。これまで暮らしてきた地元というのは、生活や風景など、すべてが当たり前です。しかし県外進学でそれは大きく変わります。地元に帰ってくると、また頑張ろうという気持ちになります。
こんなものでいいですか。

4. 今の大学進学を決めた経緯
実は高校のときの担任と副担の先生に勧められるがままに受験したところ、合格してしまいました。勧められるがままでしたが、大学進学はしたかったので努力はしました。毎日夜8時まで勉強や面接対策等を指導していただきました。(わたしはAO入試だったので、書類、筆記、面接という試験内容でした。)
ちなみに勧められるがままの大学進学というのは、入学後のはじめは後悔しました。しかし大学で勉強をしていくうちに、自分が何をしたいかということよりも、だんだんとわたしは何をすべきかということや、わたしが果たすべき役目や使命を考えるようになりました。今では進学してよかったなと思っています。

5. 英語を使った仕事がしたいが、どう進路を決めたらよいか
英語を使った仕事というのは、とても曖昧な将来像だと思います。しかし高校生の段階ではそれでも構わないと思います。進路を決めなければならないというのはわかっていても、高校時代に将来のことを具体的に決定するのは、極めて難しいからです。高校生までの教育というのは専門性が高くはないので、将来像が見えるわけもないと思います。
英語を使った仕事がしたいなら、高い英語力が必要です。まずは学校の課題を確実にこなすことでしょう。そのうえでプラスαの学習をしましょう。比較的容易に取り組めるペンギンリーダーの洋書に挑戦したり、以前に紹介した「実践ビジネス英語」http://takumagic.blogspot.com/2011/04/nhk.htmlなどを使ってディクテーションや音読を繰り返して、耳と口を鍛えることをおすすめします。英語は言語です。英語の音声面の練習も欠かせません。
そして英語以外の技量を身につけましょう。「英語を使える」のではなく、「英語を使って何ができるか」ということが大事です。幅広い勉強が必要です。
自分が何ができるか、それがわかれば進路は段々と決まってくると思います。

6. 数学が苦手だが、克服するには?
ひたすら数学の勉強に取り組むことだと思います。わかる・できるという体験の繰り返しが苦手という感覚をなくしてくれると思います。同じことを話しますが、わたしの経験を話します。どうしてもわからない問題があったときに、他の教科の勉強をまったくせずに、数学の問題一問に3時間程取り組んだことがありました。やっとのことでその問題を解いたとき、数学のおもしろさは思考の過程にあると知りました。解法を覚えようとするだけではなく、このような経験をしてみると、数学の苦手を克服できるかもしれません。


とりあえず思い出せる限りの質問と、それに対するわたしなりの回答をしました。わたしも大学生活の最中でまだまだ未熟ですが、わたしの話に耳を傾けてくれた高校生がいたので、書きたくなりました。わたしも偉そうに書いていますが、自戒の意味も込めて書きました。

K高校の生徒さん、話を聴いてくれてありがとうございました。話する機会を与えてくれた先生にも感謝です。

2011年4月25日月曜日

『日本語が亡びるとき』 第一章アイオワの青い空の下で

この本を読んだ印象としては、堅い評論形式ではないということです。タイトルや表紙からはあまり想像できないかもしれないですが、中身は今読んだところまでは、あった出来事を書き連ねる形式です。そうなってくると、ものによっては内容の薄いものになってしまうという危険性もあるでしょう。わたしも始めの印象はそうでした。作者が何が言いたいかピンとこないな。それが第一印象です。

一章の概要: 作者がIWP(International Writing Program)という会に招かれたときの話です。彼女はそこで多くの外国人と知り会います。そこで知り合う人々が、もともと英語のネイティブスピーカーでない人が多いんです。彼女は彼らとの関わりの中で、あることを思います。「人はなんと様々な状況で書いているのだろう。そしてなんと様々な言語で書いているのだろうということです。

1. 不自然な境界線
手配されたバスに乗るとき、自然とアジア系の人間が乗るバスと、白人が乗るバスが分かれてしまうということを筆者は経験しています。そこには不自然な境界線があるようです。わたしたちは見た目で、彼らとわたしは違うなと判断してしまいがちです。外見が大きく異なることは、言語や価値観まで違うことだというふうに、わたしたちは深層部分で解釈してしまうことすらあるのではないでしょうか。それが不自然な境界線を生じさせたのかもしれません。

2. 様々なバックグラウンドを持つ参加者たち
作者が紹介しているIWPの参加者たちは皆が特殊なバックグラウンドを持った者ばかりです。それはまさに島国日本ではあまり経験できないことかもしれません。モンゴル人のダシュニムは大草原の中で大家族とテント暮らしという、わたしたちがステレオタイプで見そうなモンゴル式の生活をしていました。そんな中旧ソビエト政府が自らの勢力下にある国から優秀な少年少女をソビエトに招き、ロシア語とマルクス・レーニン主義とを教え込もうという政策を始めました。しかしそれぞれの国の政府の高官の子弟ばかりが集まるので、共産主義に立ち返ろうと、僻地に住む農民や漁民の子を呼び寄せました。彼もその一人だったのです。
ヴェトナムからきた少女のような作家は、戦争のようやく終結したハノイで生まれた。チリ・アルゼンチンなど南アメリカからの作家は軍事政権や内乱を生きてきた。ボスニアの作家は唯一のイスラム教信者で、膝に銃弾の破片が埋まったままである、というようなまったく異なった環境を生きてきた人たちばかりです。

3. 皆が自分の言葉で書いている
地球のあらゆるところで、皆が自分の言葉で書いている。作者にそんな観念が生まれます。IWPの参加者の共通点ともいえるかもしれません。筆者はこうも言います。「もちろん、人はいつの時代でも<自分たちの言葉>で書いていたわけではない。(p.44)」わたしたちにはそんな感覚がありません。自分の言葉で書くなんて当たり前です。他の言語はどうなのでしょうか。
筆者はp.45でウクライナ語を例に挙げています。ウクライナ語はソビエト時代政権の影響により、禁じられたり緩和されたりと、長い間その時代の政治家たちにずっと振り回されてきました。ソビエトが崩壊したとき、ウクライナではロシア語を話す人の方が多かったにも関わらず、ウクライナ語だけが公用語となりました。メディアや公文書などがロシア語であるにも関わらず、です。ロシア語を母語と話す人たちも「自分たちの言葉」というとウクライナ語を指すと思っている人が多いというので納得はできます。いずれはウクライナ語で書く作家が増えていくとも筆者は述べています。
ヘブライ語も話し言葉としては一度なくなったも同然でしたが、復興運動のおかげもありイスラエルの母語となっています。

4. 普遍言語としての英語
皆が自分の言葉で書いている、とは言いながらも英語がそれにとって代わるのではないかということは、わたしたち日本人が意識すべき危惧です。特に、前述したような「言語の危機」を経験したことのない日本だからこそ意識すべきです。それが将来起こる可能性は否定できません。

英語はとても便利です。Wikipediaや学術論文を探してみても、英語の文献は非常に多いです。日本人であっても日本語よりもむしろ、世界的に読んでもらえる英語で書くくらいなので、普遍的な言語としての英語の存在は大きいです。

5. 日本の英語教育の脅威
日本は英語教育に力を入れようとしています。現に力を入れているでしょう。しかしそれは正しい見地に基づく英語教育ではなく、ひたすら授業を英語化しようとしたり、英語化を推し進めようとしているものです。そのことに問題があると思います。ただ「英語を話せるようになりなさいを前面に打ち出した教育政策ではダメだ」ということでしょう。

さらに、日本人は西洋文化や英語を話せること・扱えることに一つのステータスを感じる傾向があるように思います。高校のときにも、留学経験のある一つの年上の方にいました。「アメリカでは・・・なんだけど、日本では・・・で、そういうところが嫌い」とか「ダメ」だとか。日本人である自分を否定していて、アメリカ人になれるなら今すぐにでもアメリカ人になりたいといった感じでした。わたしは日本人として残念に思います。自分の生まれた国に誇りを持ったうえで、アメリカ文化を尊敬すればいいと思うのですが。

これまで言語がなくなるという危機を経験したことがない日本。便利であらゆる人に伝わる英語ばかりに教育の関心が向いてしまい、いつかわたしたちの言葉である日本語が失われるということは、考えられることなのです。


ではわたしたちは英語教育において何をすべきか。課題は何かということを書くべきなのでしょうが、まだこの本も読みだして日が浅いので、少しずつ見解を出していきたいと思います。今回は問題意識を持つことと、その問題を挙げておくことに留めておきます。