2011年7月2日土曜日

110701 夕学講座 田口佳史: 見えないものを見る 東洋思想から読み解く日本文化と日本人

近代わたしたちの生活はとても便利になりました。また日本の生活は活気あふれるものであるとも言えるでしょう。都市部に行けば娯楽施設がありますし、大きいショッピングモールが軒を連ねているので、欲しいと思うものが何でも揃うでしょう。都市部から遠くに住んでいる人々も、車や電車などの交通手段がありますし、インターネットを使えば家から買い物もできてしまいます。このようにわたしたちの生活は飛躍的に便利なものとなりました。
しかし、講演者の田口佳史さんは、現代の日本の生活はかつてのものとは様相が異なると言いました。どのように変わってしまったのでしょうか。

わたしたち日本人の生活の端々には自然や生命があふれていました。辛いことはありながらも、清く美しい流れの中で生きてきました。日本はかつて日本に親交のあった外国人からこう言われていたそうです。「日本ほど貧しい国はない。しかし同時に日本ほど美しい国もない。この国は貧しいながらも、常に洗い清められている。貧しさを超越し、何かを持っている」と。
そんな環境で生きてきた日本人は、現代では金銭物質主義とも言えるような流れの中で生活しています。今こそわたしたちは、自分たちのルーツから生活を見直し、これからどう生きていくか考えなくてはならないのではないでしょうか。内なる日本人の特質について知り、日本の生活を見直すのです。

まず大きな特徴として地理的環境があるでしょう。日本は森林山岳国家でありながら、海洋国家・島国という特性を持っています。その中でも、わたしたちの生活に大きな影響を与えたのは、日本が森林に覆われ、深い山・森の中で暮らした「山・森の民」であるということでしょう。森林には生命の根源である水が溢れています。日本が「粗い清められてた国」というのは、その森林が生み出した水で穢れを洗い落としたからでしょう。森と山は自然の力でいっぱいなのです。
それは日本人の神の発見につながりました。人々の暮らしは恵みをもたらされたり、反対に災いの力に襲われたりしてきたのです。その大いなる力の中に日本人は、自然の偉大な力を感じてきました。それが神の発見。生活に直結した神の存在は、強い信仰心を日本人の中に芽生えさせました。それは真の信仰心、心の底からの信仰心であったのでしょう。今でも古い社などを訪ね、「ご神体は何でしょうか?」と問えば、山や森などの自然を指すのだそうです。わたしたちは自然の中に神の存在を感じてきたのです。そんなことを経験してきた田口さんはこう言います。「わたしが外国人に日本人の特徴、国民性は何だと聞かれたならば、こう答えることにしています。鋭い感性と深い精神性である、と。」自然に神を感じるという感性、それを真に信仰した精神。それが日本人の特性だ、と言われるとわたしは自分が日本人であるのを誇りに感じずにはいられません。
歴史を学べばわかる通り、ギリシャやインドにも神という存在はあります。そしてそれは「像」という形に表されています。しかし日本の自然の神には像というものがありません。それは日本人が自然と共生してきたから、自らが信ずる神たちと共生してきたからだ、と田口さんは語ります。

もう一つの地理的特徴を上げるならば、ユーラシア大陸の東端、極東に位置するということです。西から新しいものが伝来してくる中、日本より東には流れることはありませんでした。太平洋によって隔てられていたからです。日本には流れてきたものが溜まりました。そこで何が起こるか、文化が熟成するのです。仏教や禅も、日本で昇華させられたものでしょう。そして中国から流れてきた老荘思想。これも日本で昇華したものです。地理的特徴はここまでです。

ここで老荘思想の成熟について見てみましょう。
老荘思想の考え方の中心にあるのは「道」という概念です。道というものは見えないものです。その見えない様子から、「無」であるとも言えます。「無」こそ自然の姿なのだということ。この場合の自然は先ほどまでとは違い、natureではありません。「自ずと然り」なものだと田口さんは言います。禅、仏教もこのことと関わりがあります。禅や仏教の世界では、心で心に伝えるのだそうです。それら心は文字にしてしまうことで、成り立たなくなります。「無」の状態そして何も描かない・書かないことで、多くを語る・伝えるという点では、「道」も禅、仏教も同じだということです。

日本の地理的特徴は考えました。老荘思想の成熟についても見てみました。それでは日本人の生き方や生活が完成する過程はどうだったのでしょうか。
日本人の生き方が完成するのに貢献した人物がいます。それは藤原定家、世阿弥、千利休、松尾芭蕉の4人です。それぞれがどう貢献したのか、見ていきましょう。

定家は「見渡せば 花ももみじもなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ」という歌を詠みました。花ももみじもないと言っている部分から、想像上の色鮮やかな情景を想起させます。

世阿弥は見えない世界を扱うことで貢献しました。この世のものとは思われぬ、霊の世界を見せ、それを体験させたことで人々の心を動かしたのです。それは夢幻能とも言われました。見えないものや形ないものの中に何かを感じるという気質は世阿弥が残したものなのかもしれません。

利休の世界は様式美です。ほんの一杯の茶、すぐに飲み終えることのできる茶ですが、それを時間をかけて味わうということ。そして彼は茶室の部屋を狭くとったそうです。その部屋は四畳から二畳半へと狭まりました。田口さんも利休の茶室を訪ねたことがあるらしいですが、それは思ったよりも広くて美しいものだったそうです。

そして最後に芭蕉ですね。彼はすべての文字を一度捨てさった上で、文字を取り出し、その文字によって独特の世界観を創り、わたしたちに示したのだそうです。そして彼は文字を捨てたように、すべてを捨て旅に出ます。その後彼は紀行文学と呼ばれる分野を樹立したのです。しかし彼はそのような分野の樹立を意図していたわけではありませんでした。彼は旅を住みかとしたのです。それが彼には自然な流れ、自ずからあって然るべき道だったのかもしれません。

それではわたしたちは昔のような生活に戻らなくてはならないのでしょうか。いいえ、それは違います。田中さんは今回の講演の終わりをそのようには締めませんでした。答えは「東洋と西洋の知の融合」を目指すということでした。原理・原則、つまりプリンシプルに優れているのは東洋、そして技術、つまりスキルは西洋が優れています。これを融合させることで、見方が変わる。それを講演の終わりとしたのです。

しかし融合させるのは簡単なことではありません。考えてみれば異質なもの同士ですから、当たり前なのかもしれません。そこで自分のルーツ、日本や東洋思想をたどることが重要なのです。東洋の生き方を知り、その精神を学んでから、西洋思想へとアプローチしてみる。それで西洋思想は、以前とは違って見えるのだそうです。

そして東洋思想を学び、自己を確立することをアドバイスとして述べてくださいました。東洋人であること(東洋人としてのアイデンティティ)の確認と自覚をできれば、自分の基盤が安定します。その基盤の上に「大局観」を身につけることの大切さを説いてくださいました。大局観とは、すなわち根源的、歴史的・長期的、そして多様的観点のことです。物事を縦に深く掘り起こし、その根源を知ること。そして横に時間をたどり見ることで、その流れを知るのです。それができれば多様的に物事を捉えることはできるようになっていると。その大局観は人の一生の財産になるのです。

大局観を身につけるには、この縦に見ることと横に見ることの繰り返しと訓練しかないです。田口先生が述べたのは、まず縦に見る力を訓練し、鍛え、人にその点を認めてもらえるようになったら、縦はクリア。次は横。横に見ることをひたすら練習し、人がその点を認めてくれたならば、大局観は身についているとおっしゃりました。

自分のルーツ、東洋を見つめ直すということ。その果てにある、西洋との融合と大局観にたどり着くこと。またわたしに喜ばしい課題と目標が増えました。


慶應MCC「夕学五十講」が運営する参考ページ http://www.keiomcc.net/sekigaku-blog/2011/07/post_448.html

「英語はコミュニケーションのツールである」という認識にもの申す

水村美苗著『日本語が亡びるとき』を教材とした授業があることは以前のブログでも書いたと思います。一応もう一回説明しておくと、その授業では1人ずつ2分ほどのスピーチを作って、それをクラスの中で発表し合う授業です。
最近、『日本語が亡びるとき』の内容を受け、クラス全体である意見が多く聞かれるようになりました。それは「英語はコミュニケーションのためのツールである」ということ。
多くの人が学問や情報入手のために使うようになった英語。日本語はその学問・情報入手という観点では価値をほとんど失ってしまった。人々は日本語で書くこと、読むことをやめてしまうのではないか。そのようなことが危惧される中で、日本語が亡びるのを食い止めるには何ができるか。その解決策の一つとして、「英語はあくまでコミュニケーションツールの一つである」ということを念頭に置き、教育を進めるという意見でした。
しかしわたしはその意見にあえて異議を唱えようかなと考えました。

「英語をコミュニケーションツールの一つとして捉えること」の問題点、それは英語を言語として捉えていないということです。英語も日本語と同じ言語です、言葉です。英語には英語の言語としての魅力があるでしょう。わたしが読んだ洋書の数はほんのごくわずかなものですが、それら洋書が与えてくれた、読書することの喜びや興奮というものは、和書に決して劣るものではありませんでした。英語にだって、日本語にはない独自の味わいがあります。それをツールの一つだと割り切っていいものかどうか。当然日本全国民が洋書を読む必要はありません。英文の美しさ・趣に触れる必要もないと思います。ましてやそれを全児童・生徒に教え込むことなんてできやしません。しかし言語を教える者として、言語をすべて同等のものとして扱うという精神は必要でしょう。外国語を尊重する、尊敬するとでも言い換えられましょうか。
そのことは教育基本法の理念にも適っているのではないかなと思います。教育基本法第二条の五です。「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」とあります。他国尊重とは、他国の言語を尊重することです。ある国を国たらしめるのには、言語が大きく関わるとわたしは考えるからです。国が持つ価値観や生活、環境といったものは言語が関わっていると思うからです。言語を尊重できないのに、国を尊重することができるでしょうか。わたしはそうは思いません。
英語を母国語とする人もいるということを忘れてはいけません。彼らにとっての英語は、わたしたちにとっての日本語と同じなのです。ただのツールではないのです。彼らにとっては英語が自分の文化なのです。自分のアイデンティティなのです。
わたしが危惧するのは、「英語はツール」と割り切るのは、英語を母国語としている人々のことが軽視されてしまうのではないかという点です。

これがわたしが「英語はコミュニケーションツールである」という意見に反対する言い分です。
このことはわたしが最近本当に考えていることです。教える側の人間は言語というものを平等に扱い、少なくとも教える際には自分のバイアスというものを取り払うことが重要かな、と思います。

2011年6月30日木曜日

ある教授のお話

お昼に階段を下りているといると、コースの先生とばったりお会いしました。そこで久しぶりだねとあいさつ。わたしはその先生の話の内容、立ち振る舞いがとても好きなので、お話を伺いたいと言うと、なんとその場で話をしてくれました。階段の踊り場で話です。本当は今度先生の研究室にお邪魔してと思っていたのですが、せっかく先生が話してくださるというのでその場で決行。

以下は先生のお話とその感想です。
お話自体が10分足らずであり、聞いた話を思い出しながら書いたので内容はめちゃくちゃかもしれないです。

1 言語は創造性に富み、アートそのものである
先生は1400年頃の英語を研究していたそうです。聞いたかぎりでは、英語そのものだったのか、英語史だったのかは定かではありません。その後はチョーサーやシェイクスピア、ディケンズなどの文学や詩を研究しているそうです。

「詩や文学、そしてそれを表現する言語。それらはすべてアートである。言語は創造性というものを持っている。言語によって創造性が広まる、深まる。それだけでなく、創造性によって言語は変化する。実際に客観的な視点から主観的な視点へ、言語の意味は変化した。人間の創造性によって、言語が変化した。」

わたしたちが美しいと感じる文学も、風景や風情を生きいきと見せてくれる詩も言語によって表現されています。もはやそれは芸術そのものです。

英語の詩・文学という分野は興味があるのですが、どうしても敷居が高いというイメージが先行してしまい、まだまだはまりきれていないですね。英語での詩や文学は、日本語よりも風景や美しいものを描写するのに優れた言語だと、わたしは思っています。感覚的にしかわからないのですが、形容詞が多いからでしょうか、日本語よりもより鮮明に情景描写のできる言語だと思います。(一方、日本語は心情描写というものが英語よりもきめ細かいと感じます。英語での心情描写は、こう直接うったえかけてくる感じで、日本語はゆっくりと迫りくるような感じですかね。抽象的すぎますし、専攻していない分野のことを話すので恐縮です。このあたりは文学部の人や、感受性の高い人と話してみたらおもしろそうです。)
そして情景・心情・美しさなど、言語が表すことのできるものは無限です。それは先生がおっしゃる通り、情景や心情などが言語にその無限の可能性を与えているので、言語もそれらを限りなく表せるのです。言い換えると「言語と言語によって表される事象は、相互作用を起こすことで、創造性が高まる」といったところでしょうか。
この分野は、もっと文学や詩に触れてからぜひ書き直したいですね。

2 授業は作り出すのではなく、生み出されるのだということ
先生が、今全然研究できていないことは「教育」だとおっしゃっていました。とはいっても、先生は自身で考えていることがあり、それが「授業は作るのではなく、生み出されるもの」 ということでした。授業でこれを言おう、あれを言おうとすると、うまくいかないことが多い。生徒には届かない。生徒もひいていく。

わたしもそうだと思います。もちろん生徒にどういう意図で何をどんな順番で教えるかという、「仕掛けられたもの」は重要だと思います。それはたとえるなら設計図だと思います。設計図は必要ですが、まったくそれ通りにしか動けないというのもまた問題です。先生はそういう部分を指摘したかったのだと思います。

やはり先生とお話しするのはいい機会だなと思います。わたしよりずっと長く勉強しているわけですし、博識です。ぜひわたしも憧れる先生のようになりたいものです。

2011年6月26日日曜日

鹿児島県の教育施策の方向性

「2 本県教育の取り組みにおける視点 http://www.pref.kagoshima.jp/kyoiku/__filemst__/55762/02-05kihon-torikumi.pdf」を踏まえ、基本目標などの実現のため、取り組む施策の方向性を以下に示す。

I 規範意識を養い、豊かな心と健やかな体をはぐくむ教育の推進
基本的な生活習慣や人としての行動・振舞いなど、社会生活を営む上で持つべき規範意識を養うとともに、法や決まりを遵守し、適切に行動できる人間の育成が重要である。
本県には、「負けるな、嘘を言うな、弱いものをいじめるな」などの、困難に直面したときにあきらめず努力することや、他人を思いやる心を持つことなどの教えもある。
変化の激しい社会を生きていくためには、子どもたちの規範意識を育て、他人を思いやる心といった豊かな心と、たくましく生きるための健康や体力をはぐくむ教育を推進していく必要があります。

II 能力を伸ばし、社会で自立する力を育てる教育の推進
子どもたちが、これからの社会を生き抜いていくために必要な基礎・基本的な力を身につけるとともに、自ら学び考え、主体的に判断、行動し、よりよい問題解決ができるような教育を推進する。またその延長線上にある、望ましい勤労観・職業観を養う。
さらに環境教育や情報教育などの社会の変化に対応した教育に加え、特別支援教育などの、子どもの状況に応じた教育を推進する。

III 信頼される学校づくりの推進
学校においては、教育の目標が達成されるよう、生徒の発達に応じて、組織的かつ体系的に教育が行なわれなければならない。
学校が役割を果たし、信頼される学校づくりをするということは、地域社会の活性化にもつながる。
またその信頼される学校づくりのためには、教職員の資質向上や生徒たちが安全・安全で過ごせるような環境を確保できるよう徹底しなければならない。

IV 地域全体で子どもを守り育てる環境づくりの推進
教育の振興には、地域に力が大きく関わる。本県にある「人の子も我が子も地域の子」という言葉があるように、今後もすべての県民が地域社会全体で子どもを守り育てるための取り組みを推進する。

V 生涯にわたって学べる環境づくりとスポーツ・文化の振興
県民が自己を磨き、豊かな人生を送ることができるよう、その生涯にわたって、あらゆる機会と場所で学べるような環境づくりを目指す。
スポーツは、心身両面の健康にとって必要なものであり、郷土の伝統や文化を守り、様々な芸術に親しむことは、ふるさとの理解や豊かな感性の涵養に必要なものであるから、スポーツや文化の振興を図る。


まとめ
I~Vの施策の方向性をできるだけわかりやすくまとめてみたいと思います。かなりわたしの主観や解釈があると思います。
これからの社会で生活を営むには、次のことが重要になる。
・法や決まりを守り、規範意識を持つこと
・他人を思いやること
・自ら学び考えること
・主体的に判断、行動し、問題解決に取り組むこと
・スポーツに親しみ、心身の健康を保つこと
これら社会生活に必要なものを子どもたちが身につけるには、学校と地域での取り組みが大事である。学校が生徒たちの発達段階に応じて、教育するのである。学校がこの役割を十分に果たすこととともに、地域社会も全体で子どもを育てるという体制でなければならない。


はじめ一通り、鹿児島県のホームページにあるように書きました。これはこの教育施策ができるまでに、おそらく多くの教育に携わる人々が、鹿児島の教育のために考えたであろう文言なので、その人たちの書いた文に敬意を示そうと思いました(一部自分のわかりやすいように変えました)。
しかし、それを写すだけで、内容が自分のものになったとは思えないですし、そこにある文の意味を考えないと、施策の実践もできないですし、反論のしようもありません。そこで自分なりに簡単にまとめたつもりです。これからもこの勉強法を続けて行いこうかなと考えています。

2011年6月24日金曜日

鹿児島県教育振興基本計画 基本目標

基本目標「あしたをひらく心豊かでたくましい人づくり」
1 知・徳・体の調和がとれ、主体的に考え行動する力を備え、生涯にわたって意欲的に自己実現を目指す人間
2 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する態度を養い、これからの社会づくりに貢献できる人間

本県には「郷中教育」や「日新公いろは歌」などの教えがあり、独自の歴史や文化を作り上げてきた。これらに教えにも見られるように、本県には教育を大事にする伝統や風土があり、豊かな自然、日本近代化をリードした歴史、地域独特の文化、農林水産業、人材などの教育資源も豊かである。地域で子どもを育てるという地域の教育力も残っている。
本県は、「あしたをひらく心豊かな人づくり」を基本目標として、生涯学習の観点から、主体性・創造性・国際性を備えた人間性豊かな県民の育成を目指し、取り組んできた。
改正教育基本法第1条に規定された教育の目的は、「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行なわれなければならない。」となっています。
また、自律・責任感、他人を思いやる心、公共の精神、規範意識、伝統や文化を尊重する心、生命や自然を大切にする心などの豊かな心を備え、新しい課題に積極果敢に挑戦する気概、困難を乗り越える力を持った人材の育成が求められている。
これらのことから、本県では「あしたをひらく心豊かでたくましい人づくり」を基本目標とし、人材の育成に努める。

1 知・徳・体の調和がとれ、主体的に生涯にわたって意欲的に自己実現を目指す人間
知
子どもたちは「未来からの預かりもの」であり、かけがえのない一人の人間であることから、その価値を尊重し、自立した存在として生涯にわたっての成長を支える必要がある。
これからの社会においては、
・一人一人が学ぶことの楽しさを知ること
・基礎的な知識・技能の習得
・課題解決に必要な判断力・思考力・表現力
・自己実現を目指そうとする意欲・態度
を目指すことが重要である。

徳
未来を担う子どもたちは、社会生活を送るうえで、規範意識、自律心、誠実さ、勤勉さ、公正さ、責任感、倫理観、感謝と思いやりの心、生命と自然を大切にする心、礼節を重んじる心、感動する心などを身につける必要があります。

体
健やかな体は、人間の心の発達を支え、人としての生活を送るのに不可欠なものです。子どもたちがたくましく成長し、充実した人生を送ることができるよう、生涯にわたりスポーツに親しむことができる習慣や体力・運動能力を身につけさせるとともに、心身健康の維持に必要な知識、習慣も身につけさせることが必要である。

2 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する態度を養い、これからの社会づくりに貢献できる人間

グローバル社会の中で、国際社会の一員であることを自覚し、異なる文化や歴史の中にいる人々と共生していくことが必要となる。
このためには、伝統と文化を尊重し、我が国と郷土を愛し、他国の尊重と国際社会の平和と発展に寄与する態度の育成が重要なのである。

同時に身近な地域社会の課題解決に主体的に参画し、その発展に貢献しようとする意識・態度の育成も重要になる。少子高齢化・過疎化の進む我が県では、地域づくりの担い手の減少と地域の活力の衰退などが予想されている。今後地域社会の課題を自分の課題であると認識し、積極的に行動することが求められる。

互いを支え合う互助の精神に基づいて、個々人の主体的な意志によって、自分の能力・時間を他人や社会のために役立てようとする意識を高める。また、自らが国や社会を作り上げる主体であるという自覚と行動、公共の精神、社会規範を尊重する意識や態度を育成する。

「あしたをひらく心豊かでたくましい人づくり」の実現に向けて、次の視点で施策を推進する。

(1)時代を超える変わらない価値のあるものの尊重
教育には、「不易(時代を超えて変わらない価値のあるもの)」と「流行(時代の変化とともに変えていく必要のあるもの)」があると言われる。個人の尊重、自律心と責任感、他人を思いやる心、公共の精神、規範意識、伝統と文化を大切にする心、幅広い教養・健やかな体などの豊かな人間性は、いつの時代の教育でも大切なはぐくんでいかなければならないものであり、施策の推進にあたって重要視されるものです。

(2)社会の変化への的確かつ柔軟な対応
時代の変化に対応した教育を行なわなければ、画一的な教育になり、個人と社会の活力を衰退させることになる。本県は少子高齢化やグローバル社会などの環境に取り巻かれていて、それは急速に変化している。このような社会の変化に的確・柔軟に対応できる人材の育成を目指した施策を推進する。

(3)学校・家庭・地域・企業等の相互連携と協力
学校は、個性に応じて基礎基本となる知識・技能を学ぶ意欲を身につけさせ、情操を豊かにする教育や健やかな体をはぐくむ教育を行ない、児童生徒の能力を伸ばす。
家庭は教育の原点である。子どもが社会生活を送るのに必要な習慣を身につけさせ、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図ること。
地域は、社会の基本単位である家庭を支え、異年齢間での交流や体験による人現生の育成などの、子どもが社会の中で役割を果たし、自立した個人として成長する上で大きな役割を担っている。
企業は、学校などと連携した職業教育・キャリア教育への協力を通して、地域社会の教育向上のための役割を担うことを要求される。
上記のように、学校・家庭・地域・企業等が、それぞれの役割を果たせるよう、相互に密な連携・協力を図り、施策を推進する。

(4)郷土の教育的な伝統や風土を活用
本県には、教育を大事にする伝統や精神、風土、豊かな自然、地域独自の文化が豊富で、さらに地域全体で子どもを育てるという教育も残っている。
これらを有効活用し、施策を推進する。

2011年6月23日木曜日

人権擁護施策推進法と人権教育・人権啓発に関する法律

人権擁護施策推進法

人権擁護施策推進法は、同和問題をはじめ、差別問題・人権問題を解決するため、1996(平成8)年12月26日に成立、翌年3月に施行された。人権教育・啓発と人権侵害の被害者救済の責務があることを国にあると記載。施策を具体的に示すのではなく、人権侵害救済について審議していくことを目的としている。

人権擁護施策推進法(抄)
第1条(目的)
 この法律は、人権の尊重の認識の高まり、社会的身分、門地、人種、信条または性別による不当な差別などの人権侵害と擁護の観点から、必要な体制を整備して、人権擁護に資することを目的とする。

第2条(国の責務)
 国は、次の二つの責任をもつ。
 1 基本的人権の享有を保障する日本国憲法の理念にのっとり、国民相互の理解を深めるための教育、啓発を施すこと
2 人権が侵害された場合における被害者救済に関する施策を推進すること


人権教育及び人権啓発に関する法律

人権擁護推進審議会の答申を受けて、2000(平成12)年12月6日に施行。国と地方公共団体が人権教育・人権啓発に関する施策策定と実施の義務、そして人権が尊重される社会の実現のために寄与するように定められている。

第2条(定義)
 人権教育とは、人権尊重の精神と涵養を目的とする教育活動である。人権啓発とは、人権尊重の理念を普及させ、それに対する理解を深めることを目的とした広報・啓発活動をいう。

第3条(基本理念)
 国・地方公共団体が行なう人権教育・人権啓発は、学校・地域・家庭・職域などの場を通じて、国民の発達段階に応じて理解を深められるように、機会提供や効果的な手法、自主性の尊重、実施機関の中立性を旨として行なう。

第4条(国の責務)
 人権教育・人権啓発の基本理念(以下「基本理念」)にのっとって、人権教育と人権啓発の施策策定と実施する責務を負う。

第5条(地方公共団体の責務)
 地方公共団体は、基本理念にのっとり、国との連携を図りつつ、その地域の実情に合わせ、人権教育と人権啓発の施策策定と実施の責務を負う。

第6条(国民の責務)
 国民は、人権尊重の精神の涵養に努め、人権尊重がなされる社会の実現に努めなくてはならない。

2011年6月21日火曜日

被災地農作物の被災地外への影響

昨日わたしは次のようなツイートをしました。

「両親がキャベツを出荷したらしいですが、1個当たり10円らしいです。これでは市場に持って行くガソリン代どころか、種代にもなりません。ふつうは安くても1個当たり70~80円するんですけどね。」

「両親曰く、関東や東北のキャベツを作っている農家が、安くでもいいから買ってくれと市場などに訴えていて、非常に安い値段で、しかも大量のキャベツが出回っているので、鹿児島のキャベツも安くなってしまう、とのこと。結果共倒れのような状況ですね。」

すると数名からメッセージをいただきました。被災地以外の農家の現状を知ることができてよかったという旨のメッセージです。そこで父との話のこと、農家の現状について少し詳しく書きたいと思います。

まず、ツイートにあるように父がキャベツを市場に出荷したところ、1個当たり10円でした。120個ほど出荷して、1000円ちょっとの値段だったそうです。これは今までにない値段です。キャベツは箱1つに6~8個ほど入れて出荷します。一箱あたり700円前後(これも常に変動します)ですから、通常なら1個当たりで80円ほどでしょうか。わたしが知る限り最も安いときで、一箱600円でしたから、それでも60円前後でしょうか。高いときなら、一箱1200円することもあります。

今回のこの安値には、被災地が関わっていると、父は言います。今回の原発の風評被害のためにキャベツ農家はキャベツが大量に余ります。とりあえず安くでもいいので売れないと、彼らにとっては死活問題です。受け入れられたキャベツは大量にあるので、値段は下がります。数がたくさん出回っているなら、他のキャベツも安くなるわけです。

1個あたり10円では、農家としてはお手上げの状況です。これでは利益どころか、かかった経費の足しにもなりません。どれくらい経費がかかるか考えてみましょう。まず、当然種代がありますね。そして、植える畑を耕すために使う農機の燃料、農薬、肥料などの経費です。出荷する際の箱などは指定されているので、箱代もいりますね。市場に持って行くガソリン代など、とにかく農業にはお金がかかるのです。

今回父が寂しそうに言っていたのがずっと心から離れません。「今回のキャベツはね、すごくきれいにおいしくできたのにね。」農作物はものによりますが、手がかかります。それだけ手をかけて育てるのですから、それなりの値段で売れないと、農家としては生活もできないうえに、がっかりです。

今回わたしが農家について書いたのは、被災地でない農家の現状も知ってもらいたいからです。すべての農家がわたしの父と同じ状況ではないでしょう。
そして農家が何を望んでいるかは、まちまちでしょう。こうしてほしい、どうしてほしいということは、ここでは述べません。知ってもらうことが第一歩だと思います。